種を蒔く人
2019年4月2日
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(マルコ4:3-8)
聖書を信じる人は誰もが知る、種を蒔く人のたとえです。これにはイエス自らが意味の解説をするという、珍しいつくりになっており、また共観福音書のどれにも掲載されているため、多くの人に伝わったでしょうし、意味を誤解する余地もないように思われます。
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。(マルコ4:14-20)
さて、ここで「種を蒔く人」とは誰のことでしょう。マタイはこれに続いて、毒麦のたとえをイエスに語らせていますが、そこでも(良い)種を蒔く人が登場します。けれども、それが誰のことであるかは明確にしていません。種蒔きのたとえでは、その種なるものが「神の言葉」である点は揺るぎないにしても、やはり誰が蒔くのかをはっきりとはさせていないように見えるのです。
その背後には、神の言葉を語る連鎖構造があり、(A)キリスト→(B)弟子あるいは信徒→(C)未信者、と単純化した図式で表すと、(A)がまず神の言葉を告げ、それを聞いて受け容れた(B)がまた、神の言葉を次の人に告げることになっています。その(B)は信じ受け容れることによって(A)の立場になり、また新たな(B)に向けて神の言葉を語るということになるでしょうか。
(A)のキリストが(B)なる私に種を蒔いた点に注目するならば、私が、道端なのか石だらけなのか茨なのか、それとも良い土地なのかが問われていることになります。自分自身はどうなのか、問いかけられており、自分の姿を省みる機会となることでしょう。もし私たちが種を蒔く者であったとするならば、いわば伝道の成果についての事情が教えられていることになります。どこに落ちるかにより成果は変わってくるけれども、時が良くても悪くても種蒔きをせよ、と受け取るのが通例ではないでしょうか。
普通なら私は、自分を省みる見方に傾倒するのでしょうが、今回は自分が種を蒔く人としてどうなのか、という立場に立ってみたいと考えました。
聖書自体をさあ読んでくれ、とひとに迫っても、そこには何の魅力もないだろう、という意見を、先に「書く・聞く・語る」と題して綴ってみました。聖書の言葉を引用して宣伝してみても、それがどうしたということで、ただ道端に落ちて鳥に奪われるばかりです。蒔いた者が、自分は蒔いたぞと自己満足したところで、すべて無駄にただ蒔かれて消えたということになるのかもしれません。文化の異なる昔の物語をいくら聞かせたところで、自分と関係があるというふうに感じさせることは、不可能に等しいものでしょう。
かといって、それを面白おかしく砕けばよいのかどうか、それも躊躇します。砕いた時点で、語る者の解釈のフィルターを通しており、神の言葉そのものではなくなるであろうからです。ダイレクトに、神の言葉がひとを救うのだとすれば、間に解釈を挟んでしまうことに問題を覚えてしまうのです。いや、しかしダイレクトと言っても、それは日本語に翻訳したならば、翻訳という解釈を通していることになり、ほんとうにそれがダイレクトなのかどうか、という考え方もあるでしょう。
結局、聖書の言葉は一義的に決まりはしないのであって、不思議と、それぞれの人にそれぞれ相応しい仕方で臨むのです。この点だけが一義的であって、どんなふうにひとを救うのか、メカニズムがあるわけではないのでしょう。
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。(マルコ4:26-27)
自分のやり方がよかったのだ、自分は正しいぞ、と思わせないための知恵なのかもしれませんが、救う力は神の言葉そのものにあるのであって、私たちの方策に具わるものではないということでしょう。私たちは、神の言葉を放っても、無駄に朽ちることがしばしばであり当然とも言える情況にありますが、もしかすると、私たち自身が「神の言葉を生きる」ことによって、何かが変わってくるのかもしれません。私たちが神の言葉に生かされて、神の言葉を生きるとき、私たちの知らないところで、何かが起こる。私たちは神の言葉を時に蒔き、しかし自分が蒔いたことに拘泥せず、私たちが光の中を歩む中で、神の出来事が起こることを待ち望むのです。自分が喜びの中にあり、そして同じ喜びを知る仲間と喜びながら、互いに赦し赦される関係の中で、神との関係をキープするとき、「神の言葉を生きる」ことになっているのではないか、と期待したいと考えるのです。