存在することについて
2019年3月31日
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ24:31)
エマオ途上での弟子とイエスとの出会いの場面のクライマックスです。今日はここへ至る旅を思いつつ、心に響く聖言葉の取り次ぎをして戴きました。イエスの姿が見えなくなった、それは、イエスのようにあなたが生きてみよ、ということです、チャレンジを受け、あなたは押し出されていくのです――そんなふうな勢いある結論へと、メッセージは流れていきました。
説教者の思いとは異なることを前提に、私なりに受け止めたことを少し綴ってみようかと思います。
「バケモノの子」という映画があります。細田守監督の名作のひとつと言えましょうが、人間の弟子・九太(きゅうた)が闇なる敵と対戦して命を落とそうとしたとき、形ある姿をなくして神となった熊徹(くまてつ)という粗っぽいバケモノの師匠は、九太の心の中に入って九太を守り、その後もその心の中で存在し続けるのでした。映画を見ていない人にはストーリーはさっぱり分からないでしょうが、要するに形をなくした熊徹が弟子の心の中に生き続けているという描かれ方をしていたわけですが、これは決して分かりにくいことではないだろうと思います。
人を喪ったとき、でもその人は私たちの心に生きているよね、という言い方を私たちはします。時には単なる慰めに過ぎない場合があるかもしれませんが、物語ではこれがエピローグになることがしばしばありますし、実生活でもほんとうにそのように思うこともあるでしょう。心の中にその人が存在する。これが気のせいや願望でないとしたら、どういうことでしょう。
このとき私たちは、その「存在する」という言葉の意味をどのように用いているか、を検討する必要があります。これを正面切って行った哲学者・ハイデガーの功績は、案外受け継がれることが少ないような気もします。「存在する」とはどういうことか。英語の be動詞には二つの用法があります。I am a boy.のように繋辞という、いわば記号の「=」としての意味しかもたないものとして用いる場合と、I am (in the room).のように「いる・ある」の意味をもっている場合とです。私たちは後者をも、案外軽く見て、前者のような感覚で見ているかもしれませんが、後者を問い直すことは、西洋哲学全体を洗い直すほどの重大な問いとなっていくのです。
神は存在するか。この問いは、最近も中世哲学と神学の重鎮である稲垣良典先生が新書という形で人々に近づきやすく説明し問いかけたものですが、それには人によりいろいろな回答が可能でしょう。ただそれは、神という主語のほうに関心がどうしても向かいますが、ほんとうは「存在する」をどのように定義するかにかかっているのではないかと私は考えています。問題は神でなく、存在するという述語(と言ってよいかどうかも難しいのですが)なのです。つまり、見えるものしか存在しない、と考える人にとっては、神は存在しないということになるし、見えないものでも存在する、と考える人にとっては、神は存在することになります。要するにその人が「存在する」ということについてどのように理解しているかによって、神はどのようにも結論できるだろうということです。
ここに机が存在する。当たり前じゃないか、とお考えかもしれません。けれどもそれは私の心象風景に過ぎないのではないか、という考え方もあります。いわゆる観念論を極端に進めると、そのようなことになります。その考え方にはその考え方なりの根拠があって、私たちがいくら「あるやん」と机を叩いてみても、そのくらいでその論理を崩すことはできないものとご理解ください。存在すると認識する私たちの側の問題ということを持ち出すと、事はそう単純ではないのです。たとえば幻覚は存在するのかしないのか、存在の定義により違ってくるのではないでしょうか。
では机とは何でしょう。触れば分かるよ、とお思いかもしれません。しかしその色ひとつとっても、属性については定義できません。見ている人により色は違うし、そもそも色というものは、反射してくる光線の波長に基づくわけですから、机そのものに色があるというわけではないはずです。さらにそれを感覚する私たちの感覚によるとなると、色は存在するという捉え方は不可能になります。しかし物質としては存在するじゃないか、とお思いになるでしょうか。それでは、どこまでが机で、どこからが机でないと言えるでしょう。ミクロの眼差しで見てみましょう。机の表面に並ぶ原子。そのどこまでが「机」の領分なのか、怪しくなりませんか。私たちが認識できない部分で、空気中に、机の原子の一部が剥がれて飛んでいっているとすると、机と机でないものとの境界線は極めて怪しくなります。
元号云々が話題になっていますが、国家となった「君が代」の歌詞に、「さざれ石の巌となりて」とあります。昔私は「岩の音」だと思っていました。さざれ石はおそらくれき岩、これが固まって大きな岩となる途方もない年月を指すと見られています。もちろん、小さな人々が集まってひとつになる、ということのメタファーであるかもしれませんが、この途方もない年月を表す表現に、「未来永劫」の「劫」(こう)という言葉があります。四十里四方の岩を、百年(諸説あり)に一度舞い降りた天女がその羽衣で撫でることにより、その岩が擦り切れてなくなってしまうまでの時間をいうのだそうです。インドではこれがいま分かっている地球の年齢ほどの時間が想定されているといいます。だとすると、その岩すら、原子レベルであれ崩壊があることになります。
さらに言えば、原子の内部には空洞があるとされているのが常識でしょう。原子がその構造を破壊されるほどに密集してしまうと、いわゆるブラックホールのような状態になるのでしょうから、いわば原子から成る物質なるものは、スカスカの状態です。その証拠に、素粒子は原子の間をすり抜けていきます。私たちの指が壁を超えられないのは、私たちの指の原子の構成が壁の原子の構成をすり抜けられないからに過ぎず、一つひとつの原子が小さな形であるならば、通り抜けることができるからこそ、レントゲン撮影ができるし、放射線が拡散することになるわけです。このような構造の中では、机なるものは、表面を周囲の物質と境界線を決定づけられず、どこまでが机であるかは定義不可能だと言えないでしょうか。だからいつの間にか机の表面が傷んできたり、色が剥がれてきたりして、あるときふと気づくわけですが、それはたまたま私たちの認識可能な範囲に変化が及んだということになるのだと思います。
「わたし」という存在についても同様です。皮膚と周囲との間の原子云々になると、いまの机と同じ議論になりますが、そもそも「わたし」とはどこからどこまでなのでしょう。私がいま肉を食べました。肉は食道を通り胃に運ばれます。この肉は、「わたし」の一部でしょうか。そもそも口から肛門までの空間は「わたし」なのでしょうか。これを「人の体内に、体外がある」と称する声もあります。しかしその肉が消化されて、吸収されますが、そうなるとめでたくその肉は「わたし」の一部となるということなのでしょうか。「わたし」の理解は、臓器提供の問題にも関係します。他人の臓器を提供されたら、いやそこまでいかなくても、輸血されたら、どこまでが「わたし」であるのか。脚を切断したらそこはもう「わたし」ではなくなるのか。そう考えると「わたし」は脳なのか。いや、脳だけでは活動できないから、脳を生かす循環系を含めての「わたし」なのか。どこまでが「わたし」が「存在する」と言っているのか、その「存在」規定がなければ、有意味な話ができなくなる虞があります。
死んだ人も私の心の中に存在する。それは、その当人の「意識」の点では存在するとは言えないでしょうが、私の「意識」においては存在するというふうにも言えましょう。ではそのようにして存在するとして、その「存在」は物質であるのかどうか。私がそのように思うことで存在するのなら、思いは一定の物質が脳内を駆けめぐることで可能になるとすれば、物質に還元することもあり得るかもしれません。これもまた、「存在」の規定の問題ですし、物質に還元できるのかどうかとなると、今度は唯物論の議論が関わってくることになります。
愛は存在するか。信は存在するか。これを物質に還元して考えようとする方法もあるかもしれません。これも「存在」の定義によることは言うまでもありませんか。しかしその愛なるものが、私の内だけの一人称の出来事であるのか、それとも私と対象との間の二人称の出来事であるのか、これも考えに値するものと思われます。いわゆる「我と汝」の問題です。彼女が振り向いてくれなくても、僕は彼女を愛している、という仕方での愛と、二人で愛し合っているという仕方での愛との違いと考えてもよいでしょう。信もそうです。信仰と日本語で言ってしまうと、人から神への一方的な働きかけしか指さないきらいがありますから、神から人への信を信仰とはまた別の語で表すというのも面倒ですから、どちらをも信という一言で表現しますが、自分だけが相手を信頼しているような形での信なのか、相手と信頼し合っている形で成り立っている信なのか、も考えるに値します。「走れメロス」では互いに信頼し合っていたセリヌンティウスとメロスでしたが、一瞬その信頼を自分が無くしたということで、互いに裏切りを告白することになりました。この二つの信の揺らぎを垣間見せる作品だったのかもしれません。
してみると、聖書にある「信」も、元来同じギリシア語を日本語で訳し分けるというところに無理があるのだとも言えます。愛も神からでも人からでもアガペーと使い(聖書で神からだけアガペーを使っていると思い込んでいる人がいますが違います)、別の語を同じ愛にしないようにすれば、表面上は混乱しますが、違う原語を同じ日本語にして誤解させない一つの方法となるでしょう。カタカナだらけの嫌味な聖書になりますが。それで、信のことですが、信もまた物質的なものとは言いづらいのだとすれば、一種の「関係」として、神からのみの場合、人からのみの場合、神と人との相互の場合などを考えてみるのも面白いかと思います。神からのみだと、イスラエルが神に背を向けている中で人が神に戻ってくるのを、放蕩息子の父親のように待つ情景が浮かんできます。人からのみだと、偶像を拝している人間のような感じでしょうか。そして神と人との相互の信となると、これが私たちの思い描く信仰生活というものになるように思えるのです。それが果たして物質的であるのかどうかは分かりませんが、聖書が告げるところでは、それは確かに「存在する」ということになるでしょう。
ところでこの「存在」ですが、神の言葉が同時に存在を意味しているというのが、古来の哲学的神学の考え方です。古典的には、思惟と実在の一致が真理とされましたが、神が「あれ」という言葉を発したと同時に「現実存在」と「成った」わけで、現代のクリスチャンもまた、説教というものが神の「言葉」をもたらすものであるならば、それはたとえば「出来事」という形で「現実存在」をもたらすことと等置されることになると考えることがあります。神の言葉が現実になる、それを私たちは信じる信仰生活をしているし、しかもそれは自分への神からの呼びかけとして受け取り担いつつ、喜んでその中に生かされています。私を通して神の言葉が現実化する、言い換えれば存在するようになる、そのように期待され、信頼されていまここに私が生かされているということです。
イエスが見えなくなったのは、見えるという形でイエスが存在するようではなくなったということ。見えるということは、私とは別の存在者であるというふうにも見えます。私は私自身なるものを見ることができません。熊徹ではありませんが、イエスは私の心の中に来てくださった。それは見えるものであるはずのない出来事です。イエスは見えなくなった。イエスは私から離れた他人や対象物ではなくなった。信というのはそういう関係の中にあること。このとき、説教者は、イエスのようにあなたが生きてみよ、というチャレンジだと受け止めました。私は少し違う角度から、「イエスのようにあなたは生きられる」という断言だと理解しました。それは、十戒が、日本語では命令のように聞こえながらも、原語では神の断言として、ほかに神があるはずがない、と迫ってくるように言っているのと対応するかもしれません。生きられるよ、大丈夫だよ、という、親が子どもに告げる最も安心させる言葉のひとつが、イエスが見えなくなり自分の中に迫るとき、与えられたような気がしてならないのです。
このような相互的な信の関係が、人の「救い」でもあるように、さらに私は受け止めています。「存在する」の定義は曖昧にしておきながらも。