書く・聞く・語る

2019年3月27日

どだい長文ですし、読んで戴こうというサービス精神に欠けた投稿であることは覚悟の上です。読ませようとする意図すら見られないでしょう。それなりの意図や願いもこめてはいるものの、宣伝がうまいなどとは決して思っていません。まぁ、開き直っていると見えるかもしれませんけれども。
 
ところで聖書ですが、これ、好んで読ませようとする魅力に欠けること限りない本だとは言えないでしょうか。確かに一線を超えてそれに救いを見出す者は、喜んで読むでしょう(読まない人もいるでしょう)。そしてこの聖書を伝えようと立ち上がるものでしょう。しかし、読んでもらおうにも、挿絵一つなく、文化的背景が異なるし独特の用語が並ぶし、新約聖書に至ってはカタカナの無意味なオンパレードが第1頁。勧めた開いてから、読む力を瞬間的に奪い去ってしまうものとなっています。
 
そもそも未知の文化や知識を、活字から得ようとする情況が時代から消えていっています。文学作品を味わおうとする人は絶滅危惧種となっています。せいぜい映画が良かったからその記憶を活字ででも読んでやっていいかな、というくらいの親しみ度。あとは話題になったものと、健康法と好きな芸能人の本か、ゴシップ記事くらいでしょうか。本の中で古人と対話をするとか、新しい思想と出会うとか、そうした体験が、日常の中にいったいあるのかどうか、冷静に見つめてみる必要があると思うのです。
 
いえ、揶揄しているのではないのです。これが現実だと申し上げているのです。あなたは今月、聖書に匹敵するような活字に満ちた深い本を、いったい何冊お読みになりましたか?
 
この世間に向けて、「聖書を読みましょう」と呼びかけることが、如何に奇妙であるか、勧めるクリスチャンは、気づいていません。気づきたくない、とでも言いましょうか。一応勧めないと伝道活動にならないから、建前だけで「聖書を読んでください」と言うのでしょうか。信じている自分が聖書に読む以上に、信じていない人に聖書を読ませようとしていることは、ないでしょうか。
 
古来、文字を読むというのは、特別なことでした。日本社会では、字の読める人が異常に多いことを、キリスト教伝来の時代に西洋人が驚いているようですが、それくらいに、ヨーロッパにおいても、文字が読めるというのは極めて特殊な能力でした。文字を学ぶ暇があったら、畑を耕すか、商品を運ぶかするほうへと促されるのが当然の世の中だったのです。
 
こうした背景は、古代の文献について調べると、益々はっきりします。そもそも聖書が書かれたという文化的背景自体が、読むという前提が基本的にない中での出来事でした。聖書は読むためのものでは決してなく、その言葉を聞くものだったのです。絵画やステンドグラスに聖書の場面を見るのは、文字が読めない人に聖書の物語を教えるためだったと言われています。
 
いまも「聞く」ことに特別の意味を見出す人がいます。聖書を自ら「読む」のではなく、外から「聞く」という接し方が、自分ではない神から自分の中へ命が注がれることのメタファーであると捉えるのかもしれません。そのため礼拝で聖書を「朗読」する担当というのは大きな役割を背負っていると理解され、司会者とは別に、朗読だけをする役割を担う人が指定されているプログラムもありえます。
 
自分が「読む」のではなく、外から語られるのを「聞く」こと(それは音声とは限りません。たとえば手話言語により伝えられるものであっても、この「聞く」という概念に属するものと規定します)に意味があるとすれば、説教は実に神からの言葉そのものであって、神の言葉に命があったというのならば、説教はまさに命を与える言葉でありうるし、そうあれかしと願うばかりです。語る責任は重いし、語るものは神の言葉、すなわち言葉が即存在として現在化する、あるいは出来事となる、そうした言葉である、という語り方、受けとめ方が望ましいと考えられます。「語る」というのが何かを語るという意味であるならば、それはものを語ること、すなわち物語となります。
 
真理を述べるのに、数学や科学の命題のように、曖昧を許さず厳密な学として定義されうるような言葉や概念を要求するという場面もありますが、物語というのは、そのような一意的な概念として冷却固定することを決して求めないあり方だと言えましょう。キリスト教の組織化なり構築なりのためには、頑強な一定の命題も必要だったかもしれません。そのために教義が明確化され、神学が建設されました。しかし、何もかもを命題化するときに、危険性が伴うことを弁えておく必要があるはずです。福音書は、律法についてそのような罠に陥ったエリートたちと、それにより迷惑を被った庶民との間のずれの中をイエスが巡り歩いたという見方もできるものです。一定の思想の整理が施され、理解されることが無駄であるはずはないのですが、原理や定理からキリストの教えを定めてしまおうとするのは、どうやらイエス・キリストの望んだ救いだとは言えないように感じられます。それは一人ひとりに応じた形で臨み、さまざま異なる一人ひとりをそれぞれに生かす力をもつものです。生かすためには、物語る営みが影響を与えるのではないかと最近とみに思います。
 
真に生かす営みが物語であるとすれば、神学や教義で争うのはあまりエネルギーのよい使用法ではなさそうにも思えます。しかし説教は、きっと物語るでしょう。物語に決まったルールはありません。説教者の体験もよいし、世の中の現象でもよい、その都度シェアできるニュースでも感情でも、何かしら定義を急ぐのではなくて、一人ひとりに応じたあり方でその人に迫り、戸を叩き、入り込もうとし、揺さぶり、動かし、喜びとでも呼ぶべき神からのプレゼントを与えるために、物語ることが、望ましいと考えます。それはいわゆる「お話」が必要だということではありません。解釈でも講解でも、主題を掲げた説教でもいい、どんなスタイルでも、物語になりうる、というのが私の見立てです。神の言葉はその意味では縛られません。ひとの考える形式や制限に収まるような、神の霊ではありません。信頼する思いの確かさを覚えさせ、望みを失わせることなく、さしあたり愛だとしか呼ぶことのできないような、包括的で根源的な神の原理、これらは自由にはたらきます。物語るその中で、自由に生まれ、届き、ひとを変えます。それをまたある場合には、真理だと呼ぶのです。それは、道であり真理であり命であるお方のことでもあるはずです。



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