十分の一
2019年3月24日
清くされたのは十人ではなかったか。
ほかの九人はどこにいるのか。(ルカ17:17)
たとえ話ではないので、このまま受け止めるべきなのでしょうが、ルカの編集がかかっていますから、この数には何か意図に基づくものなのかもしれません。というのは、同じルカが、15章で、こんなたとえを独自に載せているからです。「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」(ルカ15:8)
ルカは、ほかにマタイと共通の資料からでしょうが、ファリサイ派について、「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)とイエスに語らせ、マタイでは「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」(マタイ23:23)とマタイらしく律法の文字と精神を表しているにせよ、同様に律法規定で触れている箇所もありました。どちらにも、その十分の一を軽んじてはならないただし書きもありましたけれども。
他にルカは、あの心に残る、ファリサイ派と徴税人のたとえの場面で、ファリサイ派の祈りの中で「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18:12)と自慢のように祈る場面をイエスに語らせています。これもたとえですが、律法を遵守しているという点の強調であるということは間違いありません。
福音書の中では、「十分の一」はこのように三箇所だけ登場します。「十分の一」という邦訳が登場する節は聖書全体で57節あります。旧約で47節、新約で10節です。
ヘブライ語聖書の中では、この十分の一というのは、律法規定の中で重要な数字となります。但し、その律法が顕れる前に、例のメルキゼデクというサレムの王を前にして、その祝福を受けたときに、アブラムが「十分の一」を贈った記事があります(創世記14:20)。また、ヤコブがエサウを騙して逃げるように母リベカの兄ラバンを訪ねていく不安の中で、石を枕にして寝た時に、夢を見ました。御使いたちが階段(ヤコブの梯子)が上り下りしている夢でした。このとき主が、ヤコブに約束します。土地を与え、共におり、守り見捨てない、と。ヤコブはここを神の家(ベテル)と名づけ、枕にしていた石を祈念碑として立てました。そして、主のしもべとしての誓いの中で、「すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(創世記28:22)と言いました。これもまた、いわゆる律法が定められる以前の物語だという設定です。
出エジプトではこうした意味での「十分の一」は見られず、レビ記でも同様に、献げものの規定として、小麦粉を「十分の一エファ」であると言うことが多いのですが、27章では、地の産物の十分の一が主のものであるとし、家畜についても同様であると言及されています。
民数記になると18章で、レビという特殊なグループについて、人々が献げる十分の一をレビ人たちが受け、レビ人たちはさらにその十分の一を主に献げるようにと命じられています。これは、おぼろげな形のようですが、現在もキリスト教会での献げものに関するひとつのモデルとなっています。というのは、いわゆる「什一献金」という言い方で、信徒は収入の十分の一を献げ、それが教会とフルタイムの役職者のために用いられ、生活費として与えられた中から役職者もひとりの教会員として、その十分の一を教会に献げるという構図が一般的なものとして認められているからです。
申命記になると、このあたりが整理されたかのように、献げものとしての「十分の一」というものがさも当然のことのように並べられているように見受けられます。やはりそれまでの律法のよきまとめとして機能しているのだろうというあたりが、この「十分の一」の語の使われ方ひとつを見ても納得できるように思います。
サムエル記になると、もし王制を敷いたら十分の一を王が徴収するとサムエルが脅しをかける場面(サムエル上8:15,17)に現れます。歴代誌ではヒゼキヤの改革がなされるときに、人々が十分の一の献げものを運び込んでくるように描かれています。また、捕囚からの解放を物語るネヘミヤ記でも同様のコンセプトの中で、5節にわたり「十分の一」の語が見られます。
預言書に入ると、イザヤ書やエレミヤ書では特記するほどの用例はなく、アモスが「十分の一税」を納めたところで、形骸化した信仰生活を主は認めないというように一度だけこの語を使います。しかし何よりも印象的なのは、マラキ書です。十分の一の献げものをせっせとせよ、「これによって、わたしを試してみよ」(マラキ3:10)という有名な個所を思い起こします。これは、教会の什一献金の規定の重要な根拠として挙げられる箇所です。このころには、形骸化するほどの形すら、できていなかったということなのでしょう。神への献げものと言いながら、質の悪いものを献げるような精神であったことが、厳しく糾弾されています。
次に新約聖書ですが、福音書について先に挙げたルカとマタイだけでした。次は律法との関係を説くヘブライ書に飛びます。あのメルキゼデクのシーンを回想したり、レビの規定を振り返ったりして、祭司たるものはどういうことか、しかしてキリストはそれにも優る大祭司なのである、と話を展開するわけです。
最後に、黙示録で、二人の証人が登場した場面で、その二人の預言者が殺されてしまった後よみがえり、大地震で都の十分の一が倒れたなどという「第二の災い」の記述がありましたが、これは意味を読み取りのは難しそうです。
ルカとマタイが指摘したように、イエスは、ファリサイ派などが、香料に至るまで「十分の一」という規定にこだわりきっちり献げることに徹底しておきながら、内面的なものはとてもとてもきよめられているものではないのだとぶつけました。それを蔑ろにしてはならない点も押さえていますが、だから神の中では、なにかしら十分の一は神のものと見なされうるという律法の背景が残っているのは間違いないでしょう。
銀貨のうちなくした一枚は、特別なものと見なされました。隔離を強いられる皮膚病の十人のうち、戻ってきた一人にイエスは「救い」の宣言をしています。この一人だけが、神を賛美しました。表向き、十人とも治ったのでしたが、一人だけが神のものとなりました。それはユダヤ人ではなく、曰くつきのサマリア人だというふうに、異邦人宣教への足がかりにこの記事が用いられる仕掛けまでついています。サマリア人についてはここで詳述できませんので、ご存じなければすみませんが調べてみてください。
「ほかの九人はどこにいるのか」という言い方も私には意味深長に聞こえます。アダムやエリヤのように、極めて重要な人物に向けて神は、直に問うています。「どこにいるのか」と。これは、神が私たちに向けて問う、究極の問いではないかと私は感じて止みません。私自身がそうだったからです。「どこにいるのか」は、存在を問う、根本的で重い問いだと思うのです。私たちは、「ほかの九人」でありたいとは願わないでしょう。神の特別であることを望んで然るべきでしょう。それは数字の上で、確率十分の一だよというふうに捉えるべきではないかと思います。競争率十倍の合格を狙い、他者を蹴落としていくというような、人の目に計算できる意味での十対一のことだと決めつけるようであってはならないと思うのです。ファリサイ派や律法学者であったら、そのような計算の下にきっちりと献げものを量り、義務を果たすことで自己満足をしていたことでしょう。聖書を正確に読んでいますと自慢するグループが、救われる人数を聖書的に弾き出して強調することに対して、不安を抱く必要はありません。自分は何の価値もないままに、イエス・キリストを通じて買い取られた、特別な存在とされた恵みを受け止めて、「どこにいるのか」とたとえ問われても、「ここにいます」と呼びかけにレスポンスする者でありたい、と大声で神を賛美しながら戻って来たいと願うのです。