民主主義でよいのか

2019年3月23日

たとえば、教会役員を選挙(投票)で選ぶ。ごく当たり前の風景かもしれません。でも、それでよいのでしょうか。
 
当然、民主主義の世の中なのだから、それでよい。民主主義でなければなりません。そのように、この疑問は一蹴されてしまうだけなのでしょうか。
 
先日私が取り上げたことをご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、季刊誌『Ministry』の第40号で、「説教道場」コーナーの説教に私が大いに賛同したのでした。説教をするということも分かるし、教育というものに触れ続けている中で、その「今日のチャペルはヤバい」という説教の意義を、ひしひしと感じたのも事実ですが、私がよく考えている先のような疑問についても、その説教が、(勝手にそう思っているに過ぎませんが)味方についてもらえるような気がしたのでした。
 
「自分が当然としている視点から離れた視点が、この学校で培われるように願っています。どうか、皆さんが「ヤバい」神様に耳を澄まして、自分中心の視点や集団の支配に捕らわれない想像力を養われますように」とその説教は結ばれていました。私の言いたいことがこんなにも適切にまとめられているので、少し悔しいくらい、うれしかったのです。
 
注意力を以てお読みください。私は、世の支配に捕らわれず教会に従いなさい、などとは言っていないのです。むしろ、教会やその指導者にこそ、否自分をも含めてクリスチャンにこそ、ここはガンガン当てはめる必要があると考えているわけです。
 
民主主義を否定するようなことを口にすると、干されます。危険思想の持ち主だとつまはじきにされ、糾弾すらされるでしょう。誰も、民主主義という原理から出発すべきだと一様に言います。それを「当然としている視点」からものを言うのです。
 
本当に、民主主義は絶対的な原理なのでしょうか。プラトンは民主政治を愚衆政治だと相手にしませんでした。それはプラトンがバカだったからでしょうか。そこに何かわけがあると考えてはならないのでしょうか。いえ、プラントがどうとか言いたいのではないのです。本当に民主主義は最高の原理であり、触れてはならない聖域なのでしょうか。
 
なんだか、聖書より上に立つ、聖書以上の原理であるように扱われているようにすら見えるのですが、それでよいのでしょうか。
 
なんだ、要するに聖書信仰か、福音派だな、と軽蔑されるかもしれません。どうでしょうか。聖書の文献については私はリベラル派を大変尊敬しています。そしてその成果を学び、使わせて戴いています。聖書の一言一句を文字通りにいま適用しようだなどとは考えません。そういう文字は人を殺します。私は、聖書は命の書だとして受け取っているのです。ひとを生かす言葉がそこにある、そしてその生かす力は人間から出てくるようなものではない、と、自らの体験も含めて、標榜して止まないのです。
 
民主主義とは何でしょうか。ひとにより、立場により定義は異なるかと思います。それぞれの思惑の中での民主主義というものがあって、それぞれ自分のもつ民主主義のイメージこそ正しいと考えているのでしょう。「自分が当然としている視点」があり、それこそが正義であると主張するのでしょう。
 
多くの政党が「民主」を付ける傾向にあります。多くの国家が「民主」を名に付けようとします。そのどれもが民主主義なのです。
 
いや、近隣某国の名に付く「民主主義」は偽りだ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。独裁者ではなく、人々の多くが支持する考えを選択することを正義とするからこそ民主主義であるべきだ、と。当事者の意見を捻り潰すような圧力を以て臨むような政府ではなく、人々が自分たちのことについて考えたことを実行していくような社会でなければ民主主義とは言えない、などという考えも普通に出てくることでしょう。けれども、沖縄の住民の意見を無視する政府の姿勢を、民主主義だと呼ぶ勇気がおありでしょうか。ですが、確かに民主主義でもあるのです。
 
民主主義という原理が、近代からの流れを受けた歴史の中で、ベターなものであったことを否むつもりはありません。しかし、絶対だとすることはできないのではないか、と疑問を呈しているのです。
 
教会の役員を、あるいは民族のリーダーを、選挙で選んだという記事が、聖書にあったでしょうか。聖書を絶対視するグループだと、聖書にない原理を最高の知恵として用いていることになりはしないでしょうか。そうでないグループでも、聖書の外の原理を以て、教会を運営するのが当然正しい、とするとなると、ただでさえ聖書を判定する人間を神より上に立てているのではないかという懸念を抱えるその考え方の中で、さらに、人間の知恵や腹がしょせん最高の位置を示すだけの、神さまごっこではないか、という批判をどうかわすことができるのでしょうか。
 
では代替案を出せ、と言われるかもしれません。どこかの政党のように……。私は出せません。聖書が、そして神が出すだろうということを言うのがせいぜいです。私は出せませんが、「自分が当然としている視点から離れた視点が」「培われるように」すると、何かが変わるだろうとは思います。「自分中心の視点や集団の支配に捕らわれない想像力」を摘み取るような真似はしたくないと考えるからです。かの説教では、このような言い回しもありました。「自分にとって良いか悪いかだけに捕らわれていたら、知識と知恵は皆さんに自由を与えるどころか、皆さんを狭く縛り付けるものになるでしょう」と呼びかけ、それと逆を行くならば「もっと豊かな視点で物事を見るようになる」ことになるだろう、と。
 
真理はあなたがたを自由にする。そんな分かったような聖句を掲げて、語るほうも聞くほうも満足げに説教を聞いて分かった気になっている情景が目に浮かびます。しかし、かの説教は、千人の高校生に向けて、いきいきと真実に自由を示唆する道を掲げ示していたような気がしてなりません。もしかの副牧師の意図がそうでなかったとしても、私は喜んで、そうしたいと常々思っているのです。



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