なじみのものがいいのか

2019年3月21日

使い慣れたスマホのほうが安心する。そんなことがあります。新しいものに換えるのを渋る心理は、分からなくもありません。設定も面倒だし、データ移行も全部スムーズに行くとは限りません。同じアプリでも、パスワードをまた入れ直さなければならないとなると、億劫になるのも当然です。

そうでなくても、使い慣れたものが自分になじんで心地よいというのは、心理的にあるでしょう。たとえもう旧式で、時代遅れと言われても、自分がなじみ親しんだものが、まるで自分の体の一部のように、しっくりくるわけです。ですからまた、それこそが一番価値があるように思えるのであって、いくら新しいものを勧められても、乗り換えるのは好みません。また新たにそれをなじませるためのエネルギーを費やしたくない、という気持ちも関係あるかもしれません。
 
思えば日本の伝統を振りかざす人も、いったいいつ以来の伝統なのか、と調べてくると、明治時代あたりからということも案外多いものです。女性は家にいて仕事をしない、という考え方は、江戸時代には一部の武士ならともかく、大部分の人には関係のない考え方であったことでしょう。主張したい人の都合のよいように、「昔から」とか「伝統的に」とかいう言葉がごまかされて使われています。このような言い方を論敵が発したらすぐに、はっきりと、いつからかを示してもらうようにしましょう。
 
青少年の犯罪が近年増加している、というまことしやかな思い込みも、過去の統計を見ると全然そんなことはないと分かります。離婚が多くなったのも、何も現代の特権ではありません。かつて三年して子無きは去れ、とも言われ、平気で離縁が行われていましたから、それに限らずいわゆる離婚はずいぶん多い時代があったのです。そして今離婚率が高い地域はどこかというと、東京と答えたくなりますが、沖縄が高いということです。私たちの思い込みやイメージというものは、必ずしも事実ではないということになります。
 
自分の道具として、また考えていくための材料として、なじんだもの、自分が扱うのにエネルギーを多用しなくて済むもの、それに私たちは基本的になじんでおり、それで続けていきたいという心理が働きます。現状維持が幸福であり、革命を希望するような人はけっこう稀でしょう。
 
教会にとっても、このなじみは、意識されない前提として君臨していることがあります。プロテスタント教会の「伝統的」な礼拝は、明治期のあたりに西洋から伝えられた形式を踏襲しており、その時代の賛美歌が「伝統的」な賛美歌だと考えられています。だから外国から日本の教会に来ると、すごく懐かしいと言う人がいます。自国での昔懐かしい懐メロが歌われているからです。
 
礼拝の伴奏楽器はオルガンに限る、とまだがんばっている教会もあります。オルガンなんて、歴史的にはずいぶん新しい楽器にほかなりませんが、西洋から伝わったあの時代の楽器ですから、それが正しいように思い込んでしまっているのかもしれません。昔からオルガンだった、などと言っても、オルガンのない時代はもっと昔ですから、実は理由になっていないことが分かります。単に自分が育った教会でオルガンが使われていた、というだけであって、そもそもそれは聖書に根拠があるわけでもないのです。
 
西洋の19世紀の教会の形式を至上のものとして受け容れ、その価値観を以てキリスト教だと信じてきた過程がここにあります。
 
いや、それもよいのです。それが好きな人が集まって満足しているなら、それを否定する理由はありません。けれども、その方々が、ギターやドラムスを使う演奏を、間違っているとか、聖書的でないとか、神はそんなものを好まないとか言い始めたら、とたんにおかしくなるということを確認しておきましょう。むしろ聖書には、いろいろな楽器で主をたたえよと言うばかりです。やっぱりオルガンだね、などと言うのは自分の感情と感覚を基準にして、それ以外を認めないところから出てくる言葉となります。他を否んだり見下したりすると、大きな問題があるというわけです。
 
変わらないものと変えるべきものとのバランスは、確かに難しい。いわゆるニーバーの祈りには「変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい」という至言があります。何を変えるのか、変えてはならないものは何か、そこの判別もまた難しいのであって、たんに勇気だけで片づけられないのです。
 
最近『科学と非科学』(中屋敷均・講談社現代新書)を図書館で借りて読みました。その中に面白い指摘がありました。不均衡進化論というのだそうですが、生物は、変わることと変わらないこととの間にジレンマをもっているというのです。主の存続のためには、変わらないものを伝えないといけないのですが、一方環境の変化に応じて変わっていく部分がないと、滅びてしまうというのです。今のシステムを維持できないと生物は存続できないし、しかしまたそのシステムを本科させなければ環境の変化に対応できないというのです。生命はこの根源的なジレンマをもっていることになります。
 
その本は「生命というシステムは、現状を確実に維持しながら、変化の可能性を探る巧妙さを合わせ持つことが、まさにそのDNAに刻まれているという訳である」と述べています。この意味は、DNAが二種類の子孫を生むという点にあります。DNAが複製されるとき、現状を維持する親とそっくりな子孫が生まれるようにすると同時に、他方では変化に富む変質した子孫が生まれるようもしているというのです。どちらかすぐれた方が存続していくことになるわけです。
 
いわばひょんなことから生まれた新しい性質をもった遺伝子がいることで、たとえばおよそすべての生物が死滅するような放射線を浴びた場合でも、生き残る特殊な遺伝子をもった生物がどこかにいるはず、という仕組みになるというのです。種の全滅を防ぐための生殖の理屈は、中学校の理科でも学習します。その延長上にこの理論があるわけです。
 
つまり、変わらないものがあるということは、何も変えないということではない、ということです。変わるからこそ、変わらないものが守られるのです。江戸時代から続く老舗料理店の人が以前言っていました。その時代に合わせて味や調理を変えてきた、だからこそ老舗として今日まで続いて来ることができたのだ、その上でこの店の味は、この店の味であると言えるのだ、と。
 
自分になじんでいるからという理由で価値観をそれのみに決め、他を認めないとするならば、それは自分を絶対視していることになります。つまり、自分を神としていることになります。変わらないものは何か、それはイエス・キリストだと聖書は言っています。聖書信仰というものであっても、歴史や文化の違いを無視した、聖書の文面そのものに固執することは凡そ考えられないことであるのと同様に、私たちは、単に自分になじんだものを唯一のものとは思い込まずに、キリストのように自分の身分に固執せず、そして生きているのはもはや自分ではないという救いの姿に立ち戻って、変わることと変わらないこととの間を見つめ、なおかつ歩み進んでいきたいと願うばかりです。



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