聖書の上に立つ罠

2019年3月19日

単純化するのは好むところではありませんが、話を理解しやすくするためだとご了承ください。いわゆる福音派とリベラル、キリスト教世界で対照される2つの考え方があるとします。前者は、聖書を信仰の書として尊重し、聖書に書いてあることはすべて正しい神の言葉だという前提からスタートするとします。後者は、聖書をひとつの文献として研究し、その成立や意義を捉えようとします。但し、そこに神的な意味を読み込むことは基本的にあるものとしましょう。書物としては人間くさいものであるが、それを神によるものとして理解する道を見出すべきものとしている、だから教会で読み、説教し、神に祈るものである、と。
 
しかしこれらの考え方は、線引きされて二分されるというよりは、たいていはグラデーション的に連続的な違いであると見なされるのが普通で、いがみ合うような対立ではない、と私は捉えたいと思っています。
 
福音派の考えからすると、聖書は第一に神の言葉であり信仰の書です。だから、人の目に何か矛盾のようなものが見えたとしても、神の側からすれば深い意味がこめられている、あるいは神の真意というものが隠れていると信じます。一見、神を神として信仰していて結構なことのようですが、罠もあります。この矛盾の意味はこうである、と福音派の先生が説いたとき、いつの間にかその説明のほうが、聖書より上位に立ってしまう構造があるということです。つまり、聖書というテクストを尊重しているようでありながら、そのテクストの解釈のほうが、メタ的にテクストを権威づける働きを担い、結局テクストではなくその説明のほうを信頼してしまうという罠があるということです。
 
対して、聖書を文献として調べることが信仰的でないと決めるわけにもゆきません。福音派でも、聖書を読み解こうとする思いの故に、より適切に聖書というテクストを捉えたい気持ちがあるわけですから、文献研究を尊重するはずです。ここで議論されて然るべきは、聖書に何を求めているのか、ということになります。それを知恵の書として受け取りたい人もいるでしょうし、心の安らぎに合うとする場合もあるでしょう。聖書を攻撃するためならいざ知らず、肯定的に捉えるならば、自分のプラスのために使うことになるでしょう。その時やはり問題になるのは、聖書よりも自分や自分の理解を上位に置いていないかということです。
 
神こそ至上の存在と言いつつ、いつの間にか神学や神学する自分を基準として神を論じ、神を規定するようなことをしていないか、慎重である必要があります。神「を」どうとかすると言い始めると、神を対象物として、主体を自分に置く、こうなると最高のものは神ではなく自分であるということになってしまう構造を弁えておかなければならないと言っているのです。
 
聖書を根拠に用いつつ、他者や他の神学を非難する。こうなると、聖書よりも自分が上位に立ち、王となって聖書を利用している構造になります。つまり聖書よりも上位に自分を置いていることに。
 
こんなに単純に考えることは危険でもありますから、なにもここで神学議論の決着をつけようなどというつもりは毛頭ありません。様々な研究を尊重し、大切なものとして受け取る気持ちをもちつつ、さて自分はひとりまさに自分であるというただそれだけの存在として、神にどのように向き合うのか、そこに立ってみたいということだけです。そこにおいては、神から聞く、神が主体となる、そうでありたいし、さらに言えば、このような説明すらなく、また不要であるほどに、神に包まれている、そんなふうでありたいと願うのです。それがあったら、それこそが神の国であるのかもしれない、などと思いながら。



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