震災と神学
2019年3月11日
阪神淡路大震災から8年というと、2003年のことです。三男が生まれた年でした。あの震災の翌年に京都から福岡に移りましたので、被災した地域を訪ねることは殆どなくなっていましたが、まだ過去という意識はなかったと思います。悲しみの中で、手を取り合い立ち上がるイメージもありました。
東日本大震災は、さらにインターネット情報がそうとうに行き渡った時代の災害でした。多くの人が手近に映像を撮影し、連絡も取り合える環境になっていました。限られた町の被害というよりは、過疎地もありながら、沿岸部を中心として実に広範囲なところで人々に被害がありました。また、それが原子力発電所というスイッチを押してしまったことから、取り返しのつかない――いまだにできていないしこれからも見通しが立たない――事態を招きました。
とりあえず現地で助ける手足として、仏教もキリスト教も動きました。そうした活動の中にはなおも続いているものがあります。
長崎の原子爆弾投下の後、永井隆博士もまた、自ら被爆しつつ、人々の救援に命を削りました。しかし、「汚れなき小羊の燔祭」として死没者を捉えたことは、賛否両論を招きました。まことに酷な表現だったかもしれませんが、確かに批判を受けても仕方がない考え方であったとも言えます。ただ、この災いから「神学」の視点を取ろうとした点に今日気づきたいと思いました。神の視点をとる、というと僭越かもしれませんが、聖書の世界の出来事として考えようと努めたということです。
私たちは、東日本大震災から、神学を提示したでしょうか。した人々もいますが、世に問うものとして浮かび上がったでしょうか。ここから立ち上がり復興するためにどうすればよいか、という方面での神学はまだ多く聞くような気がするのですが、かの震災は何だったのか、という思想が表立っていないように思われるのです。
もちろん、それを説明することがすべてではないはずです。人間は、何かしら説明をすることで自分を安心させようとする性質があります。安易に自分本位の説明で納得するというのがいつも良いことであるとは思えません。それは長崎原爆についての精一杯の叫びがまた、被害者を傷つけることにもなったこと以上に、無責任な暴力になりかねないからです。しかし、だから無言でよいのかどうか、神を見上げ神に問うことをしなくてよいのか、そのようにも考えてしまいます。
震災から8年。自分の思いつきの神学を軽々しく口にするよりは、まず、経験した方々の声に耳を傾けること、それも大切なことでしょう。「絆」とか「寄り添う」とか、流行語のようになったも言葉ですら、傍観者からの自己満足の言葉であるかもしれません。その意味で、とにかく精一杯被災された方々をリスペクトし続けることができたらと願います。また、キリスト教に何ができるのか、ひとつの神学がもっと広く提示されるようであってほしい、とも思います。それが相応しいものであるなら、被災された方々に希望を与えることにもなるでしょう。神のほうに心を向ける契機となるかもしれません。大変ではあるでしょうが、傷ついた人々がこれからを生きていくために、生かされていく力となることを、もっと求めたいと思うのです。
それに見合う知識のある方々、労力を捧げた方々だけに荷を追わせるつもりはありませんが、そうした方々こそ、その神学の最前線に近いところにいるのだと思います。祈り気づかされたことを、山の上で輝かせて戴きたいと切に願います。