法治国家

2019年3月9日

「法治国家ですから」という言葉を聞くとき、私はしばしば不快に感じます。国会議員の無責任な答弁の中によくあるからです。法を自ら作る仕事をする者が、法に則るのが当然である、と法を尊重することが間違っているとは思いません。けれども、この言葉がよく、政府や議員にとって有利になるように事を運ぼうとするときの道具のように使われているのが嫌なのです。自分の都合のよい時には、法に則るべきだ、と相手に威圧的に適用しますが、自分に矛先が向けられたときには、えてして「しかしその意味は」とか「なかなか困難で」とか「知りません」とか言い逃れをするように見えるからです。(ほんとうはここで「国家」概念について触れていく必要があるのですが、煩雑になるので今回は一切そこへは進まないことにします。)
 
法治主義は、法に従うかどうかですべてを決めるという原則ですから、時に人を殺すことさえ正義となります。これを「合法的殺人」と呼んだ人もいました。大袈裟でなく、本質はまさにそうでしょう。死刑制度がそうですし、戦闘関係の法規がそうです。後者については、では敵が攻めてきたときに何もしないのか、と凄むのがまた常套手段ですが、このように専ら自分のためにのみ用いる「正義感」同士の、被害甚大な対決が煽られることを、人間はこれだけの文化と歴史をもっている中で克服できないのかともどかしくなります。
 
旧約聖書の酷さは、時に非難されます。ボタンひとつで国が滅ぶようなプロメテウスの火を手にしてしまった現代とは全く違う状況での規定や描写なので、同じ地平で解釈することは無理だと思うのですが、それでも、相当に残酷です。膨れあがった現代に相応しく解釈することも必要なのでしょう。ここにも、知恵が求められます。その知恵は、私たちいま生きている者が、そしてまたその子どもたちへと伝えることで、育んでいかなければならないでしょう。もちろん、全ては神がなす、というのは究極的にはそうなのでしょうが、しばしばそのように主張する人は、手をこまぬくということがただ傍観することになる、という誤った前提に立っています。そうではなく、実は神の敵に加担するのだという自覚がなければならないのです。
 
聖書の言葉に従うという姿勢は、法治主義に似ています。(恐らく本来の意味ではないかもしれない組織としての)教会という、国家にも似た組織の中に、カトリックでいえば「教会法」という教会のための膨大な規定が構築されていますが、これは二千年の歴史の中で築き上げられてきた法で、サグラダ・ファミリアのように私は驚異の目で見上げたくなります。いや、そうでなくても、プロテスタント教会にも、その教会の規程はきっとあるのであって、宗教法人法は規則の存在を条件としています。それは聖書に基づくのかもしれませんが、実際事務的なものであって、たとえば役員を5人置くとか任期が1年間であるとか、聖書で命じられていないことをも定めなければなりません。そしてそれに従って運営していくのでなければ法人とは認められないのですから、予算決算や総会など、必要な段取りを踏まなければ教会組織として活動できないようになっています。
 
しかし問題となるのは、聖書を法として扱い始める場合です。聖書にはこのように書いてある、と先人たちもいろいろな「信仰告白」や「信条」などを作成し、いくらかの流派はあるものの、中核にある信仰内容については大きなずれなく一致できるものを有しているかと思います。そしてそこで一致できないグループを、大勢のほうが「異端」と名づけて交わらないことにしていると言えるでしょう。
 
信条にしてもそうですが、しかし何か問題が起こったときには、聖書を根拠として教会は判断を下すことになります。ここで、「法治国家ですから」に類する事態があるかもしれない、というのがここで私が皆さまに考えて戴きたい課題です。
 
言うなれば、憲法のみあって、あるいは刑法でも総論だけがあって、各論がないという情況が、教会での法の適用の場面に比較できるのではないでしょうか。それほどがんじがらめに何もかもが決められたり、罰則が定められていたりするわけではなく、特殊な問題が起こると、習慣法のように前例と比較されたり、あるいはその時の役員の合意で決定が下されたりすることになります。教会によっては、牧師一人の命令ですべてが決まるという場合さえあるでしょう。
 
こういうわけですから、時に総会が醜い主張合戦になることもあります。毎月の定例会でもそうでしょう。なんとか委員会が多々ある教会では、それぞれの会議においてそうなる可能性があります。日曜日に神を礼拝する。祈り、賛美をし、神の言葉を聞いてここから派遣されていきましょうと送り出される。その直後に午後会議をし、そこで力のある人が自分のことは棚にあげてひとのことを聖書を根拠にして裁き合う、そんなことはありませんか。これがあまりに日常的になっている教会では、それの何が悪いのか、とさえ思えることさえあるでしょう。神を礼拝しに来たひとが、こうして午後にはどっと疲れて家路につくというようなことに、自分の正しさを主張し続ける人は気がつきません。
 
その国の中にいて、ほかからの情報がなく、またほかからの視点を得られないでいると、その国のあり方が当たり前であるようにしか思えません。情報遮断をする国があることは周知の通りです。情報統制は独裁の必須条件です。そうなると、他国からの情報が入ってきたときも、あれは悪だ、間違っている、と押し通すことで、ますます孤立していくという図式となります。いや、そんなことはは分かっている、などと言ってみても、クリスチャンも、教会の中にいるとき、案外これと似た状況にあることを知らなければなりません。先般も、長年牧会していた方が、受洗のときの手続きにおいて、ほかの教会の――私から見ればごく当たり前の――やり方を、そんなやり方があるなんて知らなかった、と漏らすのを聞くことがありました。それは事の善悪ではなかったにせよ、時々聞くのは「教会の常識は世間の非常識」という言葉です。ひとつの世界の中でそれが唯一の正義だと思い込んでいることによって、今度はそうでない人々の考え方を即座に悪だと決めつけることになります。
 
私から見れば、これこそ「愛が冷える」情景です。
 
そうは言っても、なんでも赦すのは甘い、という声も起こるし、その声が強まっていくこともあります。「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」という言葉を引く人も現れますが、私の経験上、それで収まることはありません。法治主義についての捉え方が異なる人との間で、まとまりがつかないのです。牧師が決めたのだから正しいのですよ、教会がやっているのだから世の出来事より神の前に正義なのです、などということを前提とせず、クリスチャン、そして教会は、聖書信仰も含め、何が法であるかというのみならず、その法を用いようとする主体あるいは自身が何ものであるのか、どこに立っているのか、それを弁えながら、心して法を、神をこそ主として求めていく、そういうことの必要に足を止めて、問題に当たりたいものだと思われてなりません。



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