キリスト教会で手話を学ぶために

2019年3月3日

ろう者と福音との関わりに気づいた方々が動き始めて、手話を学ぼうとし、また教えようとしています。とても喜ばしいことだと思います。
 
かつて、すでに教会にいらしていたろうの方々と、すでに活躍しておられた手話通訳者とがいる環境に入り、それぞれに教えて戴きながら、手話の世界に入っていった妻と私でしたから、否応なくその場に手話が飛び交う教会生活の中で、実地に体験していくことになったのは、ある意味で幸運でした。
 
教会にろう者がいるわけでもなく、実際ろうの方と会ったこともない、そういう方々が、手話に関心をもち、教会で手話を学ぶ機会に集まってくるというのには、敬服します。
 
すでに手話通訳をなさっている方が中心となって、定期的な会合を重ねてきたと聞いています。とにかく手話とは何か、そこから始めて、初心者にも親しみやすいプログラムを考え、手話で賛美歌を歌うということで、次第に集まる人も手話を覚えることができるようになってきたと思います。
 
ただ、気がかりなことがあります。この会は、この後何を目標としているのでしょうか。何を目指して集まっているのでしょうか。そこが曖昧であると、仲良しサークルか、カルチャーセンターのような集いになりかねないからです。
 
聴者が、手話に親しむことが目的、ではないと思います。でも、当事者ではない私が、その目的についてとやかく言うことはできませんし、したくないと思っています。だから、ここから先は、私個人の、その会とは別の次元で感じるひとつのストーリーです。
 
もしも、クリスチャンの聴者が手話を学ぶことが、ろう者に福音を伝える、ということにあるとします。もちろんろう福音の教会もあるし、ろう者どうしのクリスチャンの交わりのほうがよいということも多々あると思います。けれども、そうした場に通うのが難しいけれど聴者の教会なら行きやすいとか、賛美が好きで聴者の教会の中で喜びを覚えるとかいうろう者の場合、どうしても手話通訳が必要になるでしょう。とにかく、聴者の説教や礼拝を、福音としてろう者と共有したいという思いで手話を学びたい、というのであれば、私にひとつ提案があります。
 
それは、実際にメッセージ(説教)の通訳を試みることです。
 
たしかに、まずは基本が必要です。そのためには、賛美を手話で歌うというのは、とてもよい方法だと思います。スピードは比較的遅いし、繰り返しがあるなどして定着を図ることができます。しかし、いつまでもただ賛美を自分が楽しんでいるだけではいけません。たしかに、手話に親しんだり覚えたりする、そしてまた、自分も手話で賛美することにより、歌詞の意味を噛みしめて――手話で歌うには、必ず「意味」を捉えなければできず、意味も分からずただ歌うということができないのです――、深く味わうことができる、そんな良い点も多々あります。しかし、ろう者から見て、手話ソングを聴者がただ楽しんでいるというのは、必ずしも評判がよくありません。いったいそれで自分たちろう者とどうコミュニケーションをとろうとするのかが不明だとするならば、ただの振り付けと自己満足のようにも見えてしまうというようなことがあるからです。教会でも、いつまでもこうした状態に留まるなら、ろう者に福音を伝えるという目的には届く気配がありません。届けるには、一定の福音、つまり良い知らせを、実際にどう伝えるか、に関心をもつべきだと思うのです。
 
いきなり通訳の場に置かれて散々なことを経験した私だから、これは言えます。実際に体験すると、何をどう学べばよいかが自分で分かる、と。なんとなくノックを受けて、キャッチボールを繰り返すだけでは、野球は分かりません。曲がりなりにも試合をやってみて、どの場面でどういう技術が必要か、ルールをどう理解するか、体験してみることによって、それではそれができるためにどういう練習をすればよいか、を身を以て知ることができます。それと同じように、福音をろう者に伝える、という体験をしてみることによって初めて、何を覚えないといけないのか、どんな技術が必要なのか、を知ることができると思うわけです。
 
では具体的に考えてみましょう。もちろんいきなり礼拝の場で前に座れ、などというわけではありません。まず、誰か牧師に協力してもらい、5分から10分程度の短いメッセージを録音してもらいます。あまり策を練らず、ごく普通の――あまりにも話が特殊な方向に脱線したり、普通説教に登場しないような語彙が多発する内容は避けて――、教会でよくあるメッセージが望ましいと思います。もしそれが難しければ、短い説教集からそれなりの内容のものを選んでもよいでしょう。それを、文字でなく、必ず音声にします。実際に説教の場で語るであろう程度の速さが求められます。初めのときには、ややゆっくりめに話してもらうとよいでしょうが、それでもふだんのメッセージと遜色ない程度のスピードであるべきだと思います。いまはネット配信もできますから、会員専用のSNSサイトなどを立ち上げて、そこからダウンロードするようにすると簡単に行き渡ります。それが使えない方なら、CDに焼くということでだいたい皆がそれを使えるだろうと思います。
 
次の集会までに、それを自分なりに手話でやってみるようにチャレンジします。単語が分からない人は、分からないでよいのです。その代わり、分からない単語をリストアップします。できるところはやってみます。すると、どういう速さが必要なのかを知ることができます。
 
また、その日本語をまるごとそのままにすればよいのでないことにも気づきます。頭の中で、いったん翻訳作業をしてから、手話に移すことが分かることでしょう。英語でも、「私には兄がいます」を英語にするなら、「私は・持っている・ひとりの男兄弟を」のような扱いで単語に置き換えていくのと似ています。同じ「よい」でも、「悪いのでなく良い」もあれば「かまわない」もあり、手話が違います。そのような意味の変換がどう必要なのかについても、実際やってみなければ分かりません。
 
そして次の会合で、時間があれば、その場で音声を流して誰かが発表すれのもよいし、時間がなければ、ベテランの人が模範演技をしてみるとよい。また、単語については予め質問を受けて周知しておけば、学習効果が増すでしょう。必要ならメモをとるべきだし、場合によっては、模範演技を動画撮影して、復習用にまた内輪のサイトにアップしておくとよいと思います。その次の会合のために新たな課題をまた出す一方で、その模範演技を家で見ながら、いっしょにそのスピードで手を動かしてみるとよいと思われます。
 
視線のやり方、表情のつけ方、間の取り方や強調の仕方などは、いくら口で言っても分かりません。また、何ヶ月かに一度集まってちょっとやって見せたところで、それぞれ家に帰れば何も覚えていないし、役立てることもできないでしょう。復習が必要です。そしてそれなりに課題として取り組んだ題材であるからこそ、内容も熟知し、そして繰り返しやってみることで、確実にレパートリーになっていくはずです。
 
教材としてのメッセージは、少し角度を変えてまた新しいのを提供します。前回がクリスマスの物語であれば、次は十字架や復活、というように、教会で必要な語彙がまんべんなく入っていくようにするのがベストです。その選択には、メッセージを語る方の協力が必要であろうかと思いますが、先ほども言いましたように、市販の本から、教会でよく語られる内容のものを探すのもアリでしょう。ただし、実際に話す音声というのがポイントです。
 
その上で、日常会話も覚えていかないと交わりができませんが、これは、とにかくその会合の場では会話をとにかく手話で試みる、ということによって、つまりこれもまた体験的に掴んでいく、というふうにしたいものです。「これおいしいですね」というくらいなら、手話でやってみることは難しくないはずです。それを日本語で済ませているばかりの会合だと、手話をほんとうに覚えたいのかどうか、動機が疑われるかもしれません。
 
とはいえ、これが一番大切なことですが、私たちはなにも、完璧な手話を求めているわけでもないし、期待されているわけでもない、ということを心得ておくべきでしょう。手話通訳士のような技を目指しているのでもないし、その必要もないということです。口をはっきり動かすことで、多くのろう者は見当をつけてくれます。正しい手話でなくても、感じとってくれることが殆どです。それでも、手話を使おうとしてくれている、ということだけで、たいていのろう者は受け容れてくれるものです。その心意気がうれしいのです。
 
私たちが、外国人に出会ったとき、その人がカタコトの日本語で話しかけてきたとき、どう思いますか。間違った文法で話してきたことを咎めますか。むしろ、日本語を使おうと努力していることに、好感を抱くのではないでしょうか。そして、できるだけ言おうとしていることを汲みとろうとするはずです。しかし、何も言わないで黙って見ていても、何も伝わってはこないでしょう。手話も、一部でもまずできるところをつくる。できないところは伝えようとする心意気を示す。口の形をはっきり見せる、ゼスチュアをする、空書きをする、どんなのでもいいじゃありませんか。聖書のこの話を伝えたい、その思いが先走るのであれば、どんな手段もアリだと思います。そのために、いくらかでも手話というものを身に着けていれば、全然違うと思うのです。中学英語でも会話はできると言われるではありませんか。その気になりさえすれば、気持ちは伝わります。そのためには、実地にやってみるしかありません。
 
説教の通訳とまではいかなくとも、ろう者と聖書の話や信仰の体験談ができると、どんなにすばらしいでしょう。慰め合ったり、励まし合ったりできたら、その心が手話という言語を交えてできたら、という願いが、もしもこの手話の学びにあるのだとしても、やはり通訳の練習をお勧めします。それをしておけば、信仰の話も必ずできるからです。



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