ボヘミアン・ラプソディ
2019年3月1日
遅ればせながら先月、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。話題のクイーンの映画です。今週初めにアカデミー賞の授賞式で生演奏したことや、主演男優賞など4部門に輝いたことで、再びまた知られるようになりました。多少美しめにまとめているとはいえ、概ね実話に基づくドラマです。但し映画への出演は、本人たちはさすがに年齢がいっていますから、画面には別の若い人たちが現れるわけですけれども、これがなかなかメンバーの雰囲気をよく出していて、その点でもお見事と言わざるをえませんでした。
「映画」としての出来をいろいろ言う人がいるかもしれません。芸術作品としての「映画」を愛する人がいて、いかにヒットした作品であっても、その中によくない点を見つけて指摘するということがよくあります。そうした人の声が、さらに良い映画を生みだしてきたことは否めません。しかし、時にそれは批評家の好みに基づくということもありますから、芸術批評というのは、画一的にはならないようです。私も映画批評家を否定するつもりは毛頭ありません。
でも、何か自分の中の理想の映画を、作品に期待するかのように、あれではいけないとかつまらないとか、映画好きなのでしょうが、評価ばかりする人がいたとすると、その人は映画を楽しんでいるのかしら、と思うことがあります。作品としての意味を重視することで、映画の発展に寄与するかもしれませんが、その人自身は、いったいどれほどの映画を楽しんでいるのだろうか、と。あるいは、時に自分が楽しめなかった分、その楽しめなかった理由を理論化しようと批評しているのかしら、と思われることさえありますが、穿った見方すぎるでしょうか。
さらに言いますと、映画を見た後、私たちは素朴に、ああよかった、と空を見上げ、いまからがんばって歩き始めよう、希望をもとう、そんなふうに思うことだってあるし、悲しい映画だったら、ほかの人に優しくしようと心に誓うことだってありますね。要するに、その映画鑑賞という体験によって、自分の中に変化が起こったということです。その映画により自分が変えられた、これが私の思う、映画を見る喜びであるような気がしてならないのです。
「ボヘミアン・ラプソディ」については、もちろん上映中の映画でもありますし、ネタバレをさせてはいけませんが、その分宣伝はさせてもらいますね。私は楽しめました。よかった。クイーンについて細かく知っていたわけではありませんが、彼らの活動をそこそこリアルタイムで知っている中で、それなりに周知のことが多く、曲も私は好きでした。思えば、ひとつのバンドでこれだけ曲を知っているというのは、ビートルズやサイモンとガーファンクル、ビージーズやカーペンターズなどの定番に並ぶバンドであると気づきました。
実は妻の無二の親友が、これ以上ないくらいの、クイーンのファンなのです。フレディ・マーキュリーを崇拝していると言ってもよいくらいですが、メンバーすべて、バンドとその楽曲について、ただならぬ知識と情報をもっています。自分でも楽器ができますから、たぶん全部歌えると思います。この人は、この映画「ボヘミアン・ラプソディ」を夢にまで待ち望んでいて、封切られてからは、十回以上も観たそうです。曰く「クイーンファンにとってほ、生涯の宝物のような映画」だそうで、「家族や仲間や大切な人、そして猫への愛があふれすぎている」と言います。愛するクイーンがこんなふうに描かれたことを、心から喜んでいるのです。
私はさすがにそこまで入れこんでいるわけではありませんが、時にフレディに、時にその父親に、またメアリーの気持ちにさえなっていました。楽しめる、ということはまた、自分に刺激があった、そんな映画であったことは間違いありません。サウンドのせいかもしれませんけれども。
自分の外から、自分に影響を与えるものがある。この映画制作者の気持ちが伝わってくる。伝えたかったことが、私に及んだという気がする。私はこの映画と、よい出会いができたと思います。
ラストステージがチャリティだったこと、そこでの曲の数々もさることながら、エンドロールに流れる、Don't Stop Me Now と The Show Must Go On には、ただ涙。歌詞を細かく見ればいろいろあるのでしょうが、タイトルなどから伝わってくるのは、この死で終わるものではないし、終わるつもりもないのだ、という前進であり、希望であるように聞こえてきたのです。
そこで、いつもの私に戻りますが、私たちが聖書とどのように向き合っているのか、を顧みたい、というのが一番言いたいことなのです。聖書を製作したのは人間の手によりますが、聖書を制作したのは神だというのが、実際世界のきわめて多くの人の信仰です。ところがこの聖書について、人間は様々な角度から調査・研究を重ねてきました。それ自体が悪いことではないのです。映画批評が映画を高めていったのと同様です。けれども、映画そのものから受けるはずの喜びや感動をまるで必要としないままに、聖書をただ批評だけする声が現れ、それに拘泥するならば、意味がないように思われて仕方がないのです。聖書は「いのち」をもたらすという点が聖書の意義の中核をなすとすれば、聖書というものが事物としてのツールであることに終始するままにしておくのでなく、その背後から伝えられてくるいのちの神のココロを喜んで受けること、そしてその光の中を生きるようにさせていただくこと、そちらにシフトして――場合によっては専らそれだけで生きて――然るべきではないか、と言いたいのです。
それはもちろん死で終わるものではないし、終わるはずもないものである、とその聖書が伝えているままに受け、空を仰いで歩みたいと思うのです。聖書を使ってひとが自己実現を図るならば、必ず挫折しますから、聖書から自己を実現させてもらう向きで受け取りたいし、その源泉たる神から目を離さないでいたいと思うのです。制作者が伝えたかったことを受け止め、映画とよい出会いをするほうがきっとよいように、神の思いと、あるいはイエスその方と、よい出会いをすることによって。