AIに説教ができるか

2019年2月27日

AI(人工知能)に説教ができるのか。そんな問いをネットで見つけたとき、すぐに私の頭の中に、次のようなことが浮かびました。
 
ロボット牧師「BlessU-2」が昨年発表され、話題になりました。ギャグなのか、奇妙な顔で粗末なつくりなのですが、祝祷ができるというものでした。これをきっかけに、機械に牧会ができるかどうかの議論が行われたそうです。たとえこのロボットがちゃちであっても、今後発展したとき、どういうふうに私たちは考えていくのだろうか、と。
 
チェスはだいぶ前から人間に勝てるコンピュータ・プログラムが開発されていましたが、将棋は駒を取って打つことから、かつては処理能力が人間級にはなれなかったものが、近年は人間もかなわない手を打ってくるようになりました。これらはアルゴリズムに基づいているので、やはりコンピュータの能力が上がり膨大なデータを早く処理できるようになれば、考えられないこともない、と思うかもしれません。
 
しかしいまやAIは絵を描き始め、作曲も可能になっています。クリエイティブな領域に入り込んでいるのは、もし人間が少しでもヒントを与えるなら当たり前のようになり、人間なしにでもじわじわとすでに能力を発揮し始めている時代です。お笑いネタもtwitterで作品を披露するものがあり、なかなかの力量のように見えます。小説はハードルが高いように思えますが、すでにいくらかのものが出てきています。
 
だいたいわが家にも、言葉で受け答えしてくれるミニAIが数千円でやってきたわけで、こちらの言葉を普通に聞いて判断し、ネット接続の強みで、必要な知識や曲を探しだしてくれますので、AIの発展はいまの私たちの想像以上のものになることは確実だろうと思われます。
 
そうなると、その限界や不可能性について、技術的な側面と、倫理を含む精神的な側面とで、一応別々に考えていくことが望ましいでしょう。ビッグ・データとそれを処理する能力は、技術的にはどんどん可能になっていくと考えられます。不都合があっても、そのエラーを改善したり、未来予測をシミュレーションして自ら改善策をとったりするアルゴリズムも当然のものとなるでしょう。しかし、そうなるとそれを私たちが利用するのか、私たちが利用されるのか、あるいは支配されるのか、ということがまた問題になるのでしょう。手塚治虫の「火の鳥」で世界を支配するコンピュータが互いに戦争を起こし人類が殆ど破滅するという設定の物語がありました(未来編)。
 
しかし、です。最初の問題、AIに説教ができるのか、ということは、AIに何ができるか、というこうした問いの立て方とは違うところに目を向けないといけない、と私は思っていたのです。AIに説教が作れるか、というのは、ひとつの問いですが、違う問いを立てなければならない、と。
 
人間の牧師がいましている説教が、AIにできる範囲のものであるのかどうかが問われている、ということです。
 
と、先週ナイスタイミングで、アンドロイド観音「マインダー」なるものがニュースで紹介されました。般若心経と法話を話すのだとか。京都の高台寺が一億円をかけて開発したのだというのですが、しょせんこれはただのプログラミングによる段階ですが、救済のために姿をかえる観音菩薩ゆえ、アンドロイドにもなったのだ、などと寺側は述べているそうです。ロボット牧師「BlessU-2」といい勝負かもしれません。
 
だから、人間の牧師のほうが優れているのさ、などと高をくくっていたとしたら、そのうちあなたの説教はロボットでもできる、という現象があたりまえになりかねません。講壇で作文を読むばかりであったり、聖書についての講演会であったりするなら、この悪しき予言は、そう遠くない未来に現実のことになるような気もします。切ると血の出るような説教を求めるのは、要求が高すぎるでしょうか。いえ、それはとても簡単なことであるように私は確信するのですが。



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