自称に潜む罠2

2019年2月23日

気づくべきだと言いたかったことは、題にあるように、自称の問題でした。言っている内容そのものではありません。同じ言明でも、誰が言うか、によって意味が違う、というひとつの視点をもつ必要がある、ということです。
 
かつて、ラッセルのパラドックスと呼ばれるものがよく話題になったことがありました。自分自身を要素としない集合というものを考える中で生じるものですが、私も勉強不足なのでうまく説明できません(自分でひげを剃らない床屋の例が有名です)。もっと素朴に、自己言及のパラドックスというものがあり、その程度でいいかなと思います。「この文は偽である」という命題は真か偽かというようなもので、古代から知られていました。聖書の中にも、「クレタ人は嘘つき」というエピメニデスの言葉が引用されていました(テトス1章)。
 
「クレタ人は嘘つきである」という命題について、たとえば私がこれを言ったところで、矛盾を感じることはありません。後はそれは真であるか偽であるか、検討すればよいだけです。しかし、これをクレタ人が発言したとき、それを真偽を定めるべき命題だとすると、問題が生じます。この命題が真であるとすると、当のクレタ人も嘘をついていることになり、言明内容と矛盾が生じます。この命題が偽であるとすると、当のクレタ人が本当のことを言っていると理解されますから、やはり矛盾となります。
 
この矛盾の解決のために、自身について言及する別のレベルの言語を想定する、メタ言語という考えが取り入れられ、探究されていきました。ほかにも、様々な視点からかの言明を説明する方法が考案されていきました。
 
自分自身についての言明は、認識のしくみを考えるときには、自分が自分について言及するときの難しさと関係するようにも見えます。自分は何々である、と言うとき、そう言っている自分はどうなのか、という問題です。このように、自分のことを言い放つときに、何かしら問題が潜んでいることに、まるで気づかないとか、そこに問題性をまるで感じないとかいうのは、危険なことではないか、というのが、先の私の「自称に潜む罠」の要点でした。
 
その命題の内容自体を問題にしていたわけではないのです。同じ文でも、ある人が言うのならばそれはそれでよいのだが、ある人が言うと適切でない、ということがあるため、「誰が」それを言うのか、そこを含んだ上で、その命題を考慮する必要があるとしたのです。
 
だから、「神はすべてを益とする」という聖書の言葉にしても、悲しみの中にある人が、その神の言葉を自分の助けと信頼して、それをこれから生きていくための支えにしよう、という気持ちになったときには、自らそれを口にして、前進しようとすることはすばらしいことなのかもしれませんが、周りの人がその悲しみに打ちひしがれた人に、尤もらしく「神はすべてを益とする」からもう悲しむ必要はないぞ、などと言うことは、適切ではないのです。そして、この後者の例の故に、この聖書の言葉が意味がなく残酷だ、と判定することもまた適切ではないのです。「誰が」それを言うか、信じるか、によってその言葉は命にもなるし、刃物にもなるわけです。同じ聖書の言葉でさえ、その人間の状態や発言主体によっては、意味が変わってきます。その言葉で救われたとなると、説明的には「聖霊がはたらいた」ということになるでしょうが、そういうことはまた、言葉がたんに数学の命題のような客観的なことを指すのでないからこそ、起こることになるでしょう。
 
聖書の言葉ですら、聞く人により、心に染みいりその人の人生を変え、希望の道を歩むように受け取られる場合もあるし、何も心に感じない場合もあるというのは、数学的に誰もが受け容れざるをえないような命題とは異なるからですが、それは、「誰が」という観点に大いに関係があるであろう、と思います。
 
しかし、だから聖書の言葉はただの教えだ、としてしまうのは、私はまた何か違うように思うのです。それは、聖書の言葉は神が、あるいはイエスが言ったという前提として捉えることによります。これは「誰が」がはっきりしていて、「神が」「イエスが」です。他の誰かに変わるときに問題が起こるのが人の世の命題であるとすると、神ないしイエスに限定されるときには、比較される他のケースを想定する必要がなくなります。あまりに単純すぎるとご批判を受けそうですが、これを、相対的と絶対的と呼んで理解することにします。つまり、人の世界で「誰が」によって事態が変わるのは、相対的な命題であると考えます。比較対照する別の何かに変更されうるからです。それに対して、他に換えることのできない神からの言葉であるものは、絶対的な命題であると捉えることにしてみると、これはどんな場合にも価値が変わることのない言葉だということになります。
 
だから私たちは、聖書の言葉を場合によってはころころと意味の変わるようなものとしては受け取らず、きっぱりとそのままずばりと理解するしかないような、ただ神が端的に告げた言葉であると「信頼」するとなるときがあり、それを信じたとか救われたとかいうように称するものだと思うのです。
 
専門家による聖書の研究はありがたいものです。しかしもし、神と信仰者との間のこのようなつながりを蹴散らすかのように、聖書の中にあるものはしょせん「誰が」読むかによって本当にも嘘にもなる文献に過ぎないとか、神が、ではなく「誰か」が書いたものに過ぎないとか言ってしまうとなると、聖書をすべて相対的なものと決めてしまうことになるでしょう。そのようにその人自らが信じて読む自由はあるかと思いますが、聖書自体が相対的なものでしかない、と断じてしまうのは、よくないと思っています。信の領域までも相対的な世界の論理で塗りつぶしてしまうのは、まるで目に見えないものをすべて否定するのと同様の不遜さと見識の足り無さ、あるいは自己のみを信頼する独断であるのではないか、と。
 
他方また、与えられた聖書にあることはそのまますべて端的に、矛盾なき神の言葉と決めてしまうのも考えものです。それは結局「誰か」が訳したり定めたりした文献ですから、そこにある現物としての聖書を、つまり相対的な訳文や標準文献を絶対的なものとして決めてしまう点で問題があります。絶対的なものは神なのであって、聖書文献ではありません。文献としての聖書は、人が便宜上定めた点を否むことができません。だから、神の絶対性を認める人間が、その人間が定めたもの、いわば「誰が」をつねに気にしなければならないレベルで取り上げる人間の領域における自分を、絶対的なものと決めてしまうことは控えなければなりません。
 
しかしこの錯誤が実に多いというのが私の見解です。神の絶対性を、その神を信じると思う自分が絶対的であると錯誤してしまうのです。福音書の中では、ファリサイ派や律法学者たちがこれをしていました。イエスはそれを、言い伝えを大切にして神を蔑ろにしていると非難しました。そう、相対的に過ぎない人間の考えたもの、理解したものを、いつの間にか絶対的なものとしてしまった誤りがある、としたのです。
 
聖書をある人が理解する。それを真理だと思う。だから真理はこれだ、と他人に強要する。こうした問題が後を絶ちません。聖書が絶対的な神の何かを含みもっている、と信じるかどうかはその人の問題で、またその人が真理だと理解したときには、「誰が」の区別を伴うその人なりの理解であり、その人と神との関係の中における真理であって、その人を生かすために必要で有用だったということになるでしょうが、それが、別の「誰が」となる他人にそのまま適用されなければならない、と押しつけるとなると、その人の理解が絶対的なものとして君臨していることになりはしないでしょうか。
 
ワンマン牧師が、自分の信仰を信徒に強要する、というのは、今は少ないのかもしれませんが、かつてはよくあったことのように見受けられます。信徒の側では、だからあの牧師とは合わない、などと言います。その信仰に共鳴した人々が教会に残りますから、あの教会とは合わない、という言い方もあるでしょう。これによって信徒の側がまた、あの牧師の考えはおかしい、などという思いを抱き続けるかもしれません。あるいは教会はひどいところだ、と離れるかもしれません。これは悲劇です。
 
自己言及ができないのが、相対的な人間。神は自己言及ができることでしょう。絶対的ということは、それくらい特殊な出来事です。私たちは「ぜったいこれがいい」などと絶対という言葉を使いますが、それは一切の比較対象を認めないという意味としては、まことに意味をよく保っているとも言えます。しかし信仰の中で、聖書の理解や、何かしら概念を用いて話をするときに、その命題が絶対的な内容を含むからと言って、それを理解して発言する自分の言葉が、引いては自分自身が、絶対的な存在だとしてしまっている罠に、ひとはなかなか気がつかないのです。こうして争いが生じ、戦争も起こります。そうなると、困ったことだと呑気に眺めている場合ではなくなります。
 
私は寛容だ、自由を尊ぶ、平和を愛する、と自分について発言するとき、すでに問題が潜んでいると先に述べましたが、そのようにして自分を絶対化していくとなると、益々身を引かなくなってしまいます。自分で自分を正しいとしてしまうのですから、いつの間にか自分が正しさの基準になっているというのに、神は正しい、私は神の言葉を告げている、だから私は正しい、という論法を正当と勘違いして、自分を神としていくことになってしまう危険性があるというのです。
 
そして、やはりまた卓袱台をひっくり返すことにもなってしまいますが、弁えておかなければなりません。いまこうして話している私もまた、相対的なものに過ぎない、と。だからこうして述べてきたこともまた、絶対的になることはできないのだ、ということです。いや、絶対的になることはできないのだ、というそのこと自体もまた……。
 
人間はどこまでも、このループに陥ります。言葉は、神からきたものを受け取る、そういう私の意志だけが残ります。あるいは信仰であり、希望です。最も大いなるは愛でしたね。では愛とは……さしあたり、ヨハネ文書の中に、比較的分かりやすく告げられていると感じます。そして確かにヨハネ文書のイエスは、この絶対的な姿をよく描いているようにも感じるのです。



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