デジタル世代の才能

2019年2月21日

いつの時代も、若い才能ある人が現れるものですが、ここのところやはり驚くべき若者が注目されているように見えます。
 
先日は、ヨーロッパ抜きではあったものの、フィギュアスケートで、女子も男子も、実力者が大逆転の優勝に輝きました。フリーの演技が、それだけ大変なものであったということになります。テニスでは、四大大会連覇とランキング一位という、珍しい栄誉に輝く選手が登場しました(車椅子テニスでは日本人は男女ともこれ以上の結果を出していました)。将棋の世界で中学生が次々と記録を塗り替え、昇段を実現させているのもよく知られています。卓球界でも高校生から中学生という世代が世界一の力を示すようになりました。
 
なかなか世界の壁が高かったかつての日本人選手の記憶からすれば、何の緊張もないかのようにのびのびと実力を発揮して頂点に昇っていくこうした若い世代が、どこか羨ましくもなりますし、どうしてそんなにできるのだろう、と不思議に思う気持ちにもなります。
 
若者の体力や知力が懸念されてきた近年ですが、むしろ昔は考えられなかったほどの実力を世界でのびのびと発揮しているようにも見えます。一時の共産主義国のように、徹底的に鍛え上げる素材を見出して云々ということが、日本だとできにくいでしょうから、しょせん適わないなどとも見られていましたが、ここのところの活躍を見て、物怖じしないところかしら、などと大人が不思議がっている面もあろうかと思います。
 
これは思いつきなのですが、私はふと考えました。こうした若い力を育てているのは、コンピュータではないか、と。もちろんとコンピュータで分析すれば何でもできるというものではなく、反復練習などが必要であることは言うまでもないのですが、しかし、昔と比べると、無駄なトレーニングをしなくて済むようになっている、あるいは非常に能率的な鍛え方ができるようになっているとも思えます。
 
いまはもうしないでしょうが、昔はウサギ跳びをして足腰を鍛える、などということがありました。いまのスポーツ科学ではそれは否定されています。また、フォームの改善も、コーチがその経験や勘から、こうしてみたらああしてみたら、とアドバイスして試すことを繰り返すのが常でしたが、いまは動画撮影をした上でコンピュータが分析した理想のフォームと重ねて、どこをどうすればよいのかその場で改善していくことが可能になりました。これは大きいと思います。
 
将棋もプログラムがどんどん進展し、以前ならチェスはともかく、持ち駒を使う将棋はコンピュータは人間に追いつけないなどと言われたこともありましたが、コンピュータの性能が上がり速度でもプログラミングでも進展したので、人間が勝てなくなってきているとも言われています。これを相手に研究すれば、生身の先生に一局ずつ教わったり、過去の棋譜を集めて一つひとつ確かめたりすることなく、限られた時間でその気になれば幾らでも学ぶことができる時代となりました。
 
根性とか精神とかいうレベルで議論するより先に、即刻高度なデータが得られ、比較でき、修正や確認ができるとあれば、作業能率が上がることは言うまでもありません。
 
若者たちは、生まれ落ちたときから、こうしたコンピュータが日常生活の中で当たり前になっている時代を生きています。人から資料を見せてもらうのに手紙を書いてまた送ってもらうために数日を要していたのが、電子メールなどであっという間に済むようになりました。インターネットがない時代、図書館に通い、また取り寄せたり古書店で探し歩いた結果一冊一冊本を開いて探していた資料が、検索でものの数秒で閲覧できるようになりました。こんな効率のよい世の中をごく日常的に生きているのですから、情報量の違いは歴然としています。
 
もし、これを「巧く」利用すれば、確かに昔ならば考えられなかったほどの成果を得ることができるのではないか、それはごくごく当然の推論ではないでしょうか。
 
では、聖書や神学の方面ではどうでしょうか。これも同様です。コンコルダンスをめくるという作業はもうないでしょう。原典も、訳は当然のこと、品詞や活用形からコメンタリーまで、いくらでもすぐに見ることができます。様々な訳の比較も一瞬です。なんと効率のよい調べ方のできる時代になったことでしょう。これを、若い世代は当然のこととして利用しているのです。いや、私もその点では利用させて戴いているのですが。
 
しかし、情報がいくら手許にあったとしても、実際にトレーニングしなければ選手として活躍はできません。同じように、聖書の言葉は、研究や調査は情報からスムーズに進むかもしれませんが、そこに命があるかどうかはまた別問題です。これは年寄りの強がりということではなく、命の言葉としてはたらく聖書の言葉は、たんなるキー入力からは分からない世界を有しているのであって、神をコンピュータにかけて支配したり制御したりできるものではありません。そこを弁えていくならば、きっとよきものがもたらされるのだと、案外楽観的なのが私なのです。使う者の意志によっては、恐ろしい道具にも化すコンピュータですが、平和に、また命のために用いることを、せめてキリスト者はやっていきたいものなのですが、さあ、どうでしょう。



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