自称に潜む罠

2019年2月17日

大切な話をします。もちろん、私の言い方が面倒くさい言い方をしているため、万人に読み取って戴けるかどうかは分かりません。意味不明とお感じでしたら、それは無理にお読みくださらなくても結構です。
 
まずひとつ思考実験を。「自分は寛容だ」と言っている人がいました。寛容が最高の徳だと信じ、それを目指し、それを実行して生きているのだと言います。しかし、その人を見て、批判する人が現れました。すると、その人は、そんなおまえは間違っていると怒り始め、けしからんと非難するようになりました。
 
そんなのは寛容ではない、という非難が聞こえてきそうです。あるいは、これは面白いギャグだ、と笑って終わるかもしれません。
 
笑えると言えば、こういう話もありました。平和主義者がいて、平和を理想としています。別にまた、平和主義者がいました。この二人は、互いに相手の考え方に気に入らないところがあります。それて゜この二人はいがみ合い、ついに手を結ぶことがありませんでした。
 
ちょっと笑えないかもしれません。現実の平和団体の不一致を揶揄するような話として、誰ともなく言って広まった話だったかもれしません。
 
絶対と相対という言葉があります。「ゼッタイ勝つからな」という時に使う絶対は二次的な意味で、本来絶対と相対が対概念とされています。説明は不要かと思いますが念のために確認しておくと、相対というのが、対する相手が存在して、それと比較対照的にそれがある、という様子を表し、絶対というのが、対する相手が存在しないで、それ自身として存立することを言います。ですから神学的にも、神を絶対者と称するのは、神には対立し匹敵するような相手が存在せず、また他の存在から影響を与えられる立ち位置にいるのではなく、神自身としてただ存在するということを表すからでした。
 
最初の寛容について言うと、この自称寛容者は、それを批判する相手がいるという時点で、相対的な存在です。神でない人間の場合、この運命から逃れることはできません。有限な人間は、絶対者だとは言えないはずです。しかし、この人が理想としている寛容は、様々な対立を超越して認め合うような、いわば絶対的な寛容というものだったはずです。ここに「寛容」という言葉が、相対的なものにすぎない寛容と、それらの対立を超越した絶対的な寛容と、二通りの意味で使われていたと理解することができます。このズレが、おかしみをもたらした、あるいは矛盾のようなものを呈した、ということなのではないかと思います。
 
平和についてもそうです。理想とする平和概念がある一方、平和に対する意見を異にする、いわば相対的な平和レベルの中にいる者が、自分には理想の絶対的な平和をもっていると互いに思いなしてしまったために、理想の平和を実現することができなくなっていました。少し悲しい結果ではあります。
 
この様子について、メタ言語という説明の仕方があります。それは、言語そのものについて言明する言語ということで、一段上に立って言語について述べているようなあり方をいいますが、それがパラドックスとして問題になるのが、たとえば「この文は嘘である」という文の真偽を問う場面でした。この文自体が真であるならば嘘であることが真実となり矛盾するし、この文自体が嘘(偽)であるならば文の内容は嘘でないこと、つまりこの文は真であるということになり、やはり矛盾します。命題の内容とその文自体が同じレベルにあるものとして検討されると、このように問題が起こる場合があるのですが、これを次元の違う使い方をしているというルールから始めるならば、一定の解消を得るのではないか、などというわけです。
 
今回の場合、相対的なもののひとつとしての寛容が私たちの通常生活する世界の言語であり、これを超えたメタレベルで寛大である寛容というものが絶対的な概念としてあるという構造にすると、事態が少し説明されやすくなるかもしれません。平和についても同様です。
 
このように、全てを包摂する理想的な情況を指す概念については、現実レベルで対立を招くものと、メタ的な絶対的概念としてのものとを区別することが肝要となります。お気づきでしょうけれども、先ほどひとつこの点についてごまかして私が通りすぎようとしたところがあります。そもそも相対の対立概念として絶対がある、というところで引っかかって然るべきでした。対立概念ならば絶対ではないはずですから、そこは、奇妙ですが、相対的な概念としての絶対のことでしかなかったことになるのです。
 
ほかにも、「自由」という概念でもこれは起こります。自由というのは何でも認める懐の広いあり方や、何ものにも制約されない究極のことであるメタ的なものでイメージされやすいのですが、現実には、対立する何かと向き合う相対的な自由概念である場合が多いということを弁えておく必要があろうかと思います。
 
自由を大切にしますという政党が、実際自分たちの思いのままにならない人々には決して自由を与えないことは、私たちは日常的によく見ているところではないかと思います。論敵を封じて不自由にすることで、自分たちは自由を実現します、と公約し政策を進めていくわけです。また、アメリカ合衆国は自由を理念とする国家だと言っていますが、そのアメリカに従わない国々を武力あるいは経済力で攻撃し破壊することを正義として使命感をもって実行しているとは言えないでしょうか。いや、もちろんそこには言い分はあります。いくら自由を尊ぶとはいえ、その自由を否定する者に対して好きにさせるというのはまずいのではないか、と言うかもしれません。つまり、自由を否定する者を自由にさせるわけにはゆかない、自由を否定する自由はない、だから自由を否定する者は叩くのだ、という理屈に近いものをひっさげて、攻撃を正当化するのです。こうなると、いったい真の自由とはどういうことなのか、非常にややこしくなります。絶対的自由なるものが存在するのかどうか、そんなふうにさえ思われますが、かの自由を大切にする、というのは、自由の敵には自由を与えないという、どこか神のみが有するべき自由を、自らが行使するあたりが、果たしてそれでよいのかどうか、議論になりそうな気がします。
 
しかし、そんなふうな角度から政治批判をここでしようというのではありません。こうした絶対と相対の混同はやむをえないところもありますし、政治世界は言語論理で営まれている訳ではないでしょう。人の世の最大の幸福をなんとか実行しようという誠実な営みは尊敬する必要があります。なにもその揚げ足を取ろうとしているのではないのです。問題は、自分で自分のことを言明するときに、この混同を、意識的か無意識的かは分かりませんがすることにより、論理的に問題があるはずなのにそれを自己宣伝のように用いることになる事態が実際にあり、それが大変危なことになるのではないか、ということです。
 
その言葉自体は正しかったり、知恵の言葉となるものであったとしても、それは誰が言うかによって、相応しい場合とそうでない場合があります。不幸な事件の被害者が、これもまた人生だと自分で自分を慰めることがあったとしても、その事件の加害者が被害者に対して、これもまた人生だ、などと言ったらどうでしょう。ここでの問題にしても、あなたは寛容ですね、と他人が褒めるとき、それは大きな問題を生みだしはしないとしても、私は寛容です、と自称するとどうでしょう。傲慢に聞こえないでしょうか。たとえ寛容なところがある人であったとしても、たんに相対的に寛容であるのに過ぎないにも拘わらず、自分は恰も理想的な寛容を実行しているという詐称が起こっている可能性が大です。およそ人間であれば、完全な寛容というのも期待できないでしょうし、それを自分で自分のことを褒めていたとしたら、そのこと自体に問題があるとも見られます。いつの間にか自分が正しいというところが根底にあるままに対立に及ぶことが起こりかねず、そうなるとこの寛容は地を出してしまい、権力のある方が優位に立つという、言論ではなく力関係で事態が進むので危険だと言いたいのです。だからえてして、このような自己義認の発言は、強い立場の側の人が言うものとなります。平社員のセリフとはまず考えられませんが、社長の発言だとしたら、さもありなん、と思えないでしょうか。
 
このことはさらに、自由を例に出すと分かりやすいのではないかと思われます。自分は自由を尊重する、と主張する国家があり、強い権力や軍事力を有しているとします。他方その国家には何らかの形で従えない別の国家があることはこの世では否めません。そこで最初の国は、自由を尊重する自分に敵対する国は自由の敵だ、自分は理想の自由の守護者であるから、自分はあの国を攻撃する、それは正しいことだ、という論理を掲げて、その軍事力で相手国を制圧する、という図式です。
 
どこに大きな問題があるか、お分かりだと思います。自分が、自分のことについて、メタレベルの理想の持ち主である、と言明してしまっていた点です。しょせん対立する相手をもつ存在に過ぎないのに、理想を掲げている自分は、その理想のための使者であるから何をしてもよい、と錯覚を起こしてしまっていたのです。敵対者を潰し相手の自由を認めないことが、もはや理想のレベルの自由ではなくなってしまっているということに、自分では気づかなくなってしまうのです。
 
キリスト教と名のる教会にも、この危険性が伴います。これが私の一番懸念することです。現に、歴史はこの危険を現実のものとして刻んできました。教会が権力を有するようになると、自分こそ正義であるという自負から、敵対する勢力を悪魔呼ばわりしつつ、力で潰そうとしてきた歴史です。あるいは、怪しい魔女を殺す正義を掲げ、意見を異とする人々を血祭りに上げてきた歴史です。
 
近年、いくらかこれが改善されてきました。教会が、自らを相対的な存在であると認識するようになってきたものと思われます。キリスト教だけが絶対唯一真理である宗教で他は邪教であるというような考え方をすることを問題視する宗教多元主義という見方は、最初にひどい非難を受けましたが、徐々に理解者を増やしていますし、ある意味ではいま世界史を動かしている原理は、このように様々な宗教との対話を必要とするものだというように変わってきているように見えます。ここのところでは、かつて同性愛者をあれほど吊し上げてきた教会が、一部、LGBTを認め支援するような方向で動いているのが顕著です。そのとき、恰も昔からずっと教会はLGBTを支援していたし聖書はあなたがたを認めている、と都合のよい言い方をすることは悪いことだ、ということは、これまでも私が提言していました。むしろ悔改めから始めなければ、何の説得力もないし、誠意も真実もなにもないことになる、などとも。
 
この悔改めは、キリスト者にとり、新たな、神との出会いである、と捉えることができるように思います。教会が自ら、自分たちは正義だ、真実だ、というような言明をすることにこそ、偽りがあったのだということを自覚することで、私たちは目覚め、新たな神からの言葉を受ける備えをしなければなりません。生まれ変わらなければなりません。
 
教会が、自分は寛容です、自分は平和をもたらします、自分は自由を尊重します、と自己義認を始めると、私の経験上、だんだんおかしくなっていきます。もちろんそれは、指導者が掲げる看板なのですが、そのこと自体が間違いの素であり、危険を招く態度となるのです。自分たちはただ黙々と仕えるばかりで、それを見た他者が、あなたたちの教会は自由を尊重しているのですね、と自発的にしみじみと感じて告げるならばよいのですが、私たちは寛容です、平和を第一とします、自由な教会です、と宣伝するとき、すでにそこに誤りがあるとすべきだと考えます。このように言い放つ教会が、意見を異とする教会に向けて、あるいは個人に向けて、おまえのその考えは許さない、という態度に出るのは、原理的にありうることであり、殆どの場合そうなってしまっているのではないか、と危惧するのです。
 
けれども、すべてをそのように決めつけることは控えたい、とも思います。事実本当に、メタレベルの自由を尊重する人が、確かにいるからです。その人は、自らもまたその絶対的なメタ的自由に従わなければならない、という原則(これは日本語と違い、例外を認めないものを意味します)を第一に置いています。論敵をつくらないわけではありません。論敵も自分もまた包んでいる、その一段高いメタ自由の中にいる以上、自分はその原則に従わなければならないことを常に弁えて肝に銘じて発言している誠実な人を見ると、私はその人に信頼を寄せます。こうした方とは、信頼関係を築くことで、多くのことを学ばせてもらえます。何より、こちらのことを信頼してくださいます。自分がメタ次元にいるように思い込んでしまうタイプではなく、自分はその下にいる者にすぎない、というメタ的な見方をしている人こそ、ひとを信頼するということの意味を本当に知っているというのが、私の経験上知りえた知恵です。ですから、たとえ私と意見を事とするところがあるにしても、私はその人を信頼します。この人は、決して似非自由主義者ではないからです。
 
こうした点に気づくことで、不要な争いは確実に減ると思っています。無用な怒りの原因を覚ることで、寛容や自由、そして平和の実現に、少しでも近づくと(私はまだ楽観的なところがありますが)信じています(因みに「寛容」と「自由」とは言葉の上で元来同じものと見ることができます)。逆に、この自称の罠に気づかないとき、自らを正義とする危険な道は、人間から離れることがないのではないか、とも思います。この自称の理想を、私は「大言壮語」の一つの重要な意味だと睨んでいます。
 
長々とおつき合い、ありがとうございました。




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