分かち合いによる豊かな実り
2019年2月11日
礼拝の後で、分かち合いのひとときをもつことがあります。時折、司会を担当します。司会者は出しゃばって自分ばかり語ることはできません。かといって、沈黙の場をもたらすのは司会者としての無能力を晒します。発言しやすい雰囲気を生みだすこと、発言者が話したいことをスムーズに話せるようにアシストすること、話の流れを程よく交通整理すること、時間の中でのまとまりを意識すること、つまりこの場この時間を共に過ごして、何かよいことがあった、と一人ひとりが思えるような結果をもたらすことができるように配慮していること、そんなことを考えながら、させて戴いています。これは最近学校で行われている、アクティヴ・ラーニングと似たものであるかもしれません。
さて、ルカ10:17−20という、釈義からしても少し難しいと思われる箇所が選ばれた礼拝メッセージでしたが、その聖書箇所そのものを解説するというよりも、そこから私たちに課せられたチャレンジあるいは奉仕という角度から共に考えたいという内容になっていたと思います。そこで、この分かち合いの場でも、一人ひとりがどのような奉仕ができるのか、という点でいろいろ話して戴きました。普通ならば、奏楽だとか配膳だとか清掃だとか、そうした役割的な話題が出てきそうですが、どうやらそうではないものに目が行きとどく、幸いな時間となりました。ちょっとしたこと、ひとが何かそれがよいことなのだろうか、と気づかないほどの小さな行為、しかし、そこには神との関わりが確かにあり、信仰の告白にもなるような背景があるのだということを、その場の誰もが感じることができました。たとえば、「ありがとう」とひとに言える、そのことが奉仕だと思っている、という言葉が、どんなに尊いものであるか、その場の誰もが思い知りました。奉仕というと何かしらの担当や肩書きを教会組織の中でもったり、委員会活動をしたりするようなことのように思われるかもしれませんが、決してそういうことではなく、瞬時瞬時の小さなことを神の前に置き、また自分を空しくして自分の思いや行いを神に捧げるという出来事の中で、働きうるものであるということを、それぞれが弱さを抱えたそのままにその場で囲み、誰からともなく自らのことを口に出せたということを、うれしく思います。こうした心の集まるところにわたしもおる、というイエスの言葉の意味がいま分かるような気がします。エマオへの道であれはイエスだったと気づいた弟子たちのような気持ちにも似た思いを覚えます。
この中で、何か行動を起こすとき、自分でそれをしようとか、しなければとか、そんなことを考える間もなく、咄嗟にしていることがあるが、それはまさに神から派遣されてそのことをするように任命され、押し出されたのだ、と後から思うことがある――そのような内容の話もありました。分かります。思わず何かしてしまうこと、しかしそれは元来の自分だったらしないようなこと、そういうことが確かにあります。かと思えば、じっくり時間のある中でだが、どうしても何かその人のことが気になる、あるいはそれをしなければいけないのかと心の中でひっかかっている、そうしたこともあり、結局それをするように促されるのだ、という声もありました。これらはいわば、急性の任命と、慢性の任命とであるかのように私には思えました。
同じルカ10章の初めのほうで、イエスは「財布も袋も履物も持って行くな」と派遣の際に命じています。礼拝メッセージでは、これが現代の私たちにおいては何であるのか、思いもよらない喩えがなされ、印象的でした。急性であれ慢性であれ、何かしら自分でできるぞなどと用意した奉仕とは違うことがなされるというような指摘を聞いて、私ははっとしました。これら財布・袋・履物というのは、何も物のことを言っているのではないかもしれない、と。これらが現代的なもので喩えられるということは、そこに共通の基底事項があるはずです。私はそれが「自分」というものであることに気づかされました。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」と私たちの背中を押したイエスは、そのとき「自分」というものを持っていく必要はないはずだ、と仰ったのです。俺が俺が、と自分を主語にして自分が何かをするつもりで出て行くのではない、イエスが遣わしている、ただそれだけでよいのです。だから、それは咄嗟に、自分が何かをしようと思ってするのではなくスッと足が動き、手が伸びる、そんなことが起こります。だから、それは自分の意志や理由づけによらず、なにか分からないけれどどうしても気になる、というあり方で現れてきます。
さらに、あなたがたを遣わすということについて、これはメッセージの中でもありましたが、イエスは自分で何もかもしてしまおうとするのではなくて、弟子たちにそれをさせようと送り出したという視点を理解してこそ、福音となります。たんに人間が何かを頼るとか頼らないとかいうことではないのです。イエスが私たちを信頼して送り出した、これを感じるべきなのです。
息子が高校受験の最中です。私立受験の前にインフルエンザにかかり、合格はしましたが、思うほど良い結果とはなりませんでした。本命は次の公立受験です。ここで気落ちしている暇はありません。私は息子のいない場で高校受験を指導していますから、彼の置かれた情況はよく分かっています。残り一カ月で伸びるんだ、と当たり前のアドバイスをしたつもりでした。しかしどうやら彼は、この私の言葉を胸に懐いて、それにすがるようにしてはりきって、そういう意味での自信をもって、がんばっていると妻が教えてくれました。私の言葉を、いわば信仰するかのように、握り締めているというのです。私は教えられました。確かにこれは信のあり方に違いありません。私はというと、親としてしてやれることは直接ありませんから、せいぜい息子が気分よく残りのレースに力を尽くせるようにアドバイスしたのですが、それは私が、彼を信頼したからにほかなりませんでした。父は子を信頼した。そしてその父の言葉を子は信頼してそれを握り、精進している。
ああ、そうなんだ。「イエス・キリストの信」という表現が、人がイエス・キリストを信じるとのみ訳していた従来の捉え方が、近年とみに、イエス・キリストが人を信頼しているとか誠実であるとかいう意味を表に出し始めたという事例がありますが、この受験のエピソードには、これが両面的に成り立っていたわけです。だからまた、かの派遣においても、イエスが私たちを信頼して派遣したから、私たちもそのことを信じてその言葉にすがって自分のなすべき行動を始め、また続けることができるというのではありますまいか。
親として、子どもが失敗するかもしれないという心配も当然あります。闇雲に大丈夫と決めつけているのでもないし、大丈夫と考えなければ信仰や信頼がないとかいうつもりもありません。しかし、背中を押すのです。送り出すのです。それは、信頼しているからです。この子は自分のベストを尽くす、と信頼しているのです。イエスもまた、弟子たちの失敗を当然予想していたことでしょう。それでもよい、それでもわたしはおまえたちのことは信頼しているよ、と送り出します。その先で、サタンさえ落ちるのを見ていたということになります。もちろん、それが喜ぶべき対象ではないと釘は刺されましたが、イエスはそこで、神の国の実現という本来の目的へもう一度目を向けるようにさせるのでした。そのような役割は、また後で受験を終えた息子に対して、改めて、真に信頼すべきものを指し示すことで、この肉なる父もやることになるだろうと考えています。
きっと、もはや「自分」というものがいらないであろうときに、最もよいはたらきが、言葉から現実へと出来事するようになることでしょう。そのことについて、この福音を届けてくれた神を信頼するのが、いまここで私にできる、さしあたりのことだと思いました。