理科の入試問題と聖書の味わい
2019年2月11日
中三の受験生に教えるには、数学だと何の苦もなくやれるのですが、事情によりいまは理科を教えています。文科系の専門だった私ですが、最初は理系で受験した後、方向転換をしました。数学の明晰さが私のモットーだったのが、高校倫理に出会った辺りで変化し始め、哲学に転向したというのは、証詞の中でいつもお話ししていますので、ここでいま語るつもりはありません。
福岡県の私立高校入試は一応終わり、次は3月の公立高校入試に一途に向かっていくことになります。その中で、当然過去問というものも扱っていくことになるのですが、先日ある問題で、おぞましいほどに答えが書けない問題がありました。それは記述問題なのですが、記述そのものは、傍から見るほどに難しいものではありません。教育の指針が最近大きく変化したので、記述問題は増える傾向にあり、またその出題自体がストーリー性を帯びた、臨場感があり状況の把握を求める性格のものとなってきていることは、そろそろだんだん知られてきていることだろうと思います。
その過去問でも、一定のストーリーの中で展開されたが、当該の文は次のようなものでした。
「……気孔から水蒸気が出ていくのですか。」
「そうです。さらに、気孔は開閉して、二酸化炭素や酸素の( )しています。」
この文に先立つ文についてその現象を答えさせ(その正答は「蒸散」)、会話文中の( )内にあてはまる内容を簡潔に書け、というのが設問でした。
要するに気孔のはたらきについて知っていることを書けばよいのですが、この問題ではそのはたらきについて制限があります。この文の( )にあてはまる説明でなければならないということです。
気孔とは植物の葉の、多くは裏側の表皮にある小さな穴のことです。たらこ唇のような孔辺細胞が特徴的で、その形を変えることにより、孔の大きさが調節されます。光が当たり光合成を行うときには二酸化炭素をそこから吸い、つくった酸素を放出します。また植物は常に呼吸をしており、ここから酸素を吸収し、二酸化炭素を排出します。また、体内の水分をここから水蒸気として放出することで、根から水を吸い上げたり体温を保持したりする蒸散作用もおこなうなど、外部との気体の交換をするのがその役割とされています。
「出入り」と答えた生徒がいました。「二酸化炭素や酸素が」ならまだ分からなくもありませんが言葉として奇妙です。「出入りを」としても同様です。
「呼吸や排出を」のように、対比にもならない2つを並べている生徒もいました。呼吸のときには気孔から酸素を取り入れ二酸化炭素を排出し、光合成のときには二酸化炭素を取り入れて酸素を出す、のメカニズムを言いたかったものと思われます。
しかし、たとえば「吸収や排出を」としたとしても、正解とは言いづらいものです。問題文には「気孔は開閉して」とありました。「開いたり閉じたりすることで変わる何かをする」ということを言っています。呼吸や排出は開いた状態でなされるとすれば、「閉」という文字がここにある必要はなくなるでしょう。ガス交換をするということを言いたいのであれば、「開閉」という表現を使わないと思われます。何かの目的のために、開いたり閉じたりするのです。どうしてある時には開き、ある時には閉じなければならないのでしょう。
適切な解答としては、「出入りを調節」となっていました。開いたり閉じたりすることにより調節する、このつながりが確かに自然です。見る限り、この語を用いた生徒は殆どいませんでした。いえ、いたのはいたのですが、「量を調節」というふうに書いていました。この生徒は、「開閉」の語の意味に気づいて、それを活かす言葉として「調節」を思い起こしたのです。ここまでは悪くなかった。そして「量」も決して的外れではありません。でも、( )には合いません。「二酸化炭素や酸素の量を調節する」というこれらのガスは、どんなガスなのでしょう。空気中に漂うそれらのガスの量を調節するのでしょうか。いえ、取り入れたり出したりするという形容のついたガスの量であるはずです。だから、「出入りする量を調節」とまで踏み込まなければ、曖昧な文になってしまうということになります。
「開閉」の語が何のためにそこにあるか。「どんな二酸化炭素や酸素」であるのか。この2点を同時に解決する表現を、簡潔に( )に入れなければならない問題だったわけです。
なんといやらしい、とお感じになるかもしれません。しかし、理科の学習の目的のひとつは、物事の正確さです。定義から方法から、何かを述べるためには、曖昧な受けとめ方をされないように、また主張を曖昧にしないために、正確に表現することが肝要です。情緒的に、言わなくても分かる、という文学とは違う言語の使い方が求められます。これを身に着ける、あるいは少なくとも体験することが、理科の学習の本領というところですから、この点をいい加減に済ますわけにはゆかなくなります。
聖書についての学究というのは、こういう仕事をなさっているフィールドであるとも理解できます。もちろん、それは科学ではありません。正確さといっても、だいぶ意味合いが異なります。想像に任せなければならないことも多いし、いくら文献資料に基づくと言おうと、科学で言うほどの厳密さや一律性は期待できません。解釈が伴い、また実験的手法がまず使えないことからしても、実証性に乏しいことは当然です。しかし、概念規定や論法に基づく結論への過程において、正確な論理がなければ、説としても訴えるものがなくなりますし、それを受けて聖書を理解するのに役立てようとする側も、気分ばかりで、もしかすると誤解や思い込みに流されるままにさまようことにもなりかねません。
そして、たとえ学問的でないにしても、聖書を読むときに、こうした教訓は活きてくるのではないか、とも思われます。聖書の一文の、一部を勝手に削除して読み込んで分かった気になることが、あるかもしれません。わざわざその語を用いて書かれてあるということは、どういうことが言いたい背景があるのか、何を言おうとしているのかその真意は何か、そんなところへ思いを馳せながら、神からのメッセージの謎解きをしていく、それが聖書を読むことであり、あるいはその楽しみであるというふうに考えています。何よりも、自分個人へ宛てたメッセージであるという受けとめ方をすることほど、うれしいことはありません。ラブレターをどきどきしながら開き、その行間にあるものを読み取ろうとしたときのように。
いや、SNSだと読み取るなんて必要がない? そんな時代なんですかね。でも、そんなことはないと私は思っているのですけれど。