悔い改めて出発する
2019年2月7日
さて、ここのところ私が毒(!)を吐くようなことばかりしてきたので、少し反省して、明るい光を求めてみようかと思いました(さて、どうかな?)。
LGBTという言葉が広く知られるようになってきました。もちろんこの四種に区分けするというのも乱暴なので、さらにクィアという言葉もありますし、より包括的で適切な表現が一般的になるとよいとも思いますが、自分ではどうしようもないことについての不当な差別が解消されるべきだという方向に世の中の考えがシフトされていくことは、明るい兆しだと言えるかもしれません。
ろう者や手話といったことも、半世紀前のあまりに差別的な情況からすれば、改善されてきたと見たほうがよいでしょうし、そのために手話条例など法的整備も始まっていることが、いくらかでも明るい方向へ道が始まっていると思いたいものです。
……と、明るい展望を見たわりには、またいつもの道に戻ってしまうのですが、私は聖書を信じると公言し、教会に通う者として、このLGBT関係の方々には、申し訳ない気持ちでいっぱいでいます。それは、キリスト教が、この方々を差別してきた張本人であるからです。
聖書に書いてあるという、自分に都合のよい正義感によって、同性愛者を悪魔と罵り、虐げてきたのはほかならない、キリスト教の信奉者あるいはその文化に基づく共同体や国家でした。とくに国家権力というものがこの数百年の中で成立し、法治国家であるからと、どこかの国の首相のように都合良く自分を正しいものとするためにのみ口に出すようになると、この処罰が正義であると、神の名までもちだして振る舞ったのでした。
さらに、これが人権を守るという原則から問題視されると、掌を返したように、教会はLGBTの味方です、などと言い始める。こちらのほうが罪深いかもしれません。もちろん、いまなおこれらを全く認めない教派も少なくないのですが、認めるようになったところも、かつて在野で訴えていた信徒の声を抑えつけようとしていたのが一般的でしたから、「最初から彼らの味方でした」などと嘯くことだけはしたくないと思っています。
私の中ではどうだろう。確かに、無闇に差別する気持ちは昔からさらさらありませんでしたが、聖書に書いてあるぞと言われれば、それに反対することはできませんでした。これはやはりいけません。聖書にあるから正義であるならば、タコは食べてはいけないでしょうし、女性にはかぶりものを強制しなければなりません。女性牧師などもってのほかです。
神は正義だと人は考えます。このとき、神の側に自分もつくと考えたとき、自分も正義の味方になります。いえ、自分で自分を正義とします。どのように説明したところで、私たちは自分を正しいとするところから歩き始めます。なぜ自分は正しいのか。その基礎付けが、贖いと呼ぼうが救いと呼ぼうが、信仰の根幹にあるならば、これを回避することは益々難しくなりかねません。
そのメカニズムの解明すら、すでに自分の肯定という目的のために使おうとしているかもしれませんから、私はただ悔い改めて、許しを求めるしかない、そこからスタートしたいと思います。すでに視覚や聴覚についても一定の差別を聖書を根拠にし続けていた私たちです。どうあがこうが、聖書にはそのことが書いてあるからです。いや、自分は聖書をそのまま真理だとは認めていません、などと言おうが、聖書を手にして権威としている以上、どこまでも言い逃れとなってしまいます。
聖書が、体の不自由なことを聖ならざるしるしとして描くことなどについて、私たちはもっとはっきりと、新たな神学を示すことで、改めなければならない時代になりました。でないと、ファリサイ派や律法学者とまるで違わないことになりますから。
ファリサイ派などを特に敵対視した人のひとりに、マタイの福音書の著者がいると思います。マタイの意義については諸説ありますが、そのうちの一つに、律法重視を示しつつも、ファリサイ派のような硬直した律法理解と適用でなく、イエスのように愛を原理としてなおかつ律法自体を否定しないというあり方への転換を考えている、という捉え方があります。私たちも、聖書を重視しつつも、イエスを原理として捉え直す可能性があるのではないでしょうか。これを、希望へとつないでいきたいと思うのです。そのためには、まず自分が正しいという気持ちを完全に捨てることが条件だとして。
【付加】ローマ教皇が、同性愛者の男性に、創造主である神が「あなたをそのようにつくった」との言葉をかけ、性的指向は「問題ではない」と言明した、とCNNが昨年5月に報じられていました。大きな変化でもありましょうし、前進だとも言えるでしょうか。それは他方、性的問題については悩めるカトリックがあることも背景にあるかとは思いますが……。