宗教は毒だと見られていることについて

2019年2月5日

Twitterでだいぶ前から流行っている、ビンゴ。項目を書き込んだビンゴの中に、自分にとって当てはまるものを選んでいき、ビンゴしたら、その傾向が強いというお遊び。
 
エホバの証人の子というジャンルが最近あって、暴露コミックエッセイが幾種類か出ていますが、そのおひとりがやってみた「毒親ビンゴ」(作・メンヘラ評論家さん)というのが目に止まりました。
 
「貧困」「暴言」「過干渉」「厳しすぎる」「全否定」などというのは、それなりにアリかなぁと見ていましたが、右の列に「宗教」というのがあるのを見て、他の明らかに否定的な意味合いの項目と比べて、これが毒親なのか、と不思議に思いました。
 
こうするとキリスト教会の人は、真っ先に、「キリスト教は悪い宗教ではない」とか「これはカルト宗教のことなのよ」とか弁解めいた発言をするのではないでしょうか。あるいは神学的な議論だなどと言って、「キリスト教は宗教ではありません」などと説明をする人もいるでしょうか。
 
教会の仲間内で、そのように「ねー」などと言い合うのは、それはそれでよいのです。これを機会に、「宗教」とは何か、を考え合ってもよいでしょう。けれども、このビンゴは、世の中で生まれ、流通し、あるいは気に入られているのです。そこから逃げるわけにはゆきません。
 
そうです。「宗教」は毒だと思われているのです。「情緒不安定」や「責任転嫁」「プライバシーの侵害」「人の悪口を聞かせる」「殺されかけた」などと並ぶカテゴリーの中に、「宗教」というものが置かれていて、そこに居場所をつくっている、という現実を見なければなりません。宗教は危険であり、毒であり、御免被りたいものであることが常識と見なされている事実と向き合う必要がある、ということです。
 
教会は伝道をする使命を与えられています。権力により迫害を受けないシステムになっている現代社会、人権も自由も守られるべきものとして認識されていますから、聖書が書かれた時代のような、命懸けの信仰をする必要は基本的にありません。だから、伝道をすれば人は教会に来る、来てほしい、そんなふうに無邪気に思ってアピールし、人を誘います。
 
しかし、キリスト教=宗教=毒、このリンクに違和感のない世の中の空気の中でそれをしているならば、どう受け取られているか、想像に難くありません。マンガではよく、同じひとつの行為の場面において、片方は好意的でにこにこ、片方は嫌悪感いっぱい、というのを対比させて笑わせることがありますが、まさにそのように、無邪気に伝道する教会はにこにこして、どうしてこれだけ言っても来てくれないの、などと考えているのに対して、相手は、怖い・引き込まれたらどうしよう・何されるか分からない、という空気を吸って、笑顔でどうにかして断ろうと焦っている、そう描かれるべき事態となっているわけです。
 
このビンゴが毒親であることからすると、息子や娘を教会に連れて行きたいと願っている夫婦のクリスチャンは、まさに「毒親」というレッテルを貼られているのかもしれません。
 
けしからん? 宗教はそんなんじゃないのに? 分かっています。そうだと思います。けれども、宗教が毒であるとして自然に受け容れられている現実を踏まえて考えていくのでなければ、キモがられているのにあの子は自分が好きなのだと迫るストーカーのような役割を演じていることにもなりかねません。いえ、それならまだましなほうで、自分は善人のつもりで、良いことをしているつもりで(基本的にクリスチャンはそのはずですが)伝道しているとなると、これはもうコメディにしか見えないと言ったほうがよいのではないでしょうか。
 
もはや毒麦どころの騒ぎではありません。クリスチャンも教会も、存在そのものが毒だと見なされているとなると、もはや、どうやって伝道すればよいか、といった問いそのものがぶっ飛んでしまっていることになりかねません。
 
なにも、否定的な考えを植え付けようとしているわけではありません。流れに棹さすことのなかなかできない私は、人間の考え方というものはなんとか定まった枠から自由にならないか、といつも模索しています。硬直した思考に閉じこめられている中で、自己本位な断定を究極の真理であるかのように思いなしやすい人間という存在において、考える自由を得たいと願っている者です。だから、別の視点、考慮したいフィールドというものを、何かしら提供できないかと模索しています。今回も、その模索のひとつです。しかし、非常に厄介な模索です。解決の糸口にお気づきの方は、ご意見をぜひお聞かせください。



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