手話通訳の教会的目的についての独断的姿勢
2019年2月4日
キリスト教会の礼拝で手話通訳をする。中には、前もって説教原稿を欲しいと願う手話通訳者に、なんのためにそんなことを要求するのかと否んだ人もいたとか。ナーバスなのは分かりますが、手話通訳の何たるかを理解していないことは間違いありません。つまりは、ろう者に対する思いというものが冷たいものであると見なされて仕方がないでしょう。
他方、気遣いの強すぎる説教者は、手話通訳者には、語ることをきっちりと原稿の形にして提供していなければいけないと思い、語るときにもそこから逸れてはいけない、と原稿通りを話すべきだと努めてくださることがあります。説教者には負担をかけていると恐縮します。
その話を聞いて、ふと気づきました。それは、礼拝説教の手話通訳とはどういうことであるのか、通訳をしている側と、それを横から見ている側とでは、意識がかなり違うのではないかということです。また、この場合妻と私とが使命を帯びて受け止めているものと、他の教会で手話を学ぶ方の間にも、だいぶ理解が異なる部分があるのではないか、とも思うのです。
私は手話通訳者としては五流以下です。妻は、公認の通訳士などではないので、一流と呼ぶのはよろしくないでしょうが、一・五流くらいの力でいまは通訳を担っていると私は見ています。だから、手話の技術に関しては決して威張れるものではありません。手話通訳ということについては、偉そうなことは何一つ言えないものだと理解しています。
それでも少し述べます。まず、この場合の通訳というのが、説教者が喋った日本語を、ある意味で機械的に、手話に変換して伝える、というように理解してくださっているならぱ、それは違うということです。語る内容の完全な原稿が必要だという誤解は、この理解に基づいているように思われます。予定外のことを語ってしまったら、手話通訳者はうまくできないのではないか、という心配をされるのは優しいからだと思いますが、それはやはり誤解です。
確かに、話す内容については、知りたいと思います。それには2つの理由があります。
一つは、特殊な分野の話になり、特殊な用語が頻出する場合。特有の手話を知らなくても、指文字で対応できますから、全部の単語について手話を調べるまでには至りませんが、ある程度は調べます。また、全く意味の分からない、イメージが抱けない事柄については、勉強して、それがおよそどういうものであるのか調べておきます。しかしそれも大抵の場合は説明しながら語られるでしょうから、なんとかなります。困るものがあるとすれば、固有名詞が一番です。人名・地名などについては、全くの無知である場合には伝えにくくなります。本の紹介がある場合もそうです。予め調べる必要を覚える場合があります。このように固有名詞が次々と並ぶと、それらを一つひとつ伝えなければならないのか、どうかするとたんに「昔の人々」で用が足りるのか、その辺りを考えながら通訳を試みます。話の内容に関わる重要なことは漏らさず伝えますが、まとめて伝えて事足れりということもあるからです。その他、英語の表現を使って説明が施される場合も、予め分かっていれば助かります。咄嗟に言われても、どのように伝えれば分かりやすいか、瞬時に判断しかねる場合があるからです。英語の綴りが問題なのか、意味しているところが問題なのか、そうした背景的な理解があってこその手話通訳となるからです。
それでも妻は、できるかぎり語られた言葉をそのままに、いわば臨場感たっぷりにろう者に伝えたいという姿勢で通訳をしています。極端にいうと、自分では意味が分からなくても、とにかく伝えようという気持ちですし、それも可能ならばすばらしいものです。つまりそれだけ手が早く動くという訓練ができているわけです。私はだめです。遅いのです。そのせいもあって私は、口に出た言葉そのものではなく、それが言わんとしている意味をとにかく外さないように伝えようと心がけます。あるときには具体例がコロコロと登場している中、それらの詳細は一切無視して、「いろいろなことがあって」程度で略し、伝えなければならない本質的なテーゼを丁寧に伝えようと言い換えたり説明したりします。邪道ですが、礼拝説教の場合、これが有効な場合も確かにあるものと思われます。
説教で話す内容を知りたいと思うもう一つの理由は、この説教が何を目指しているのか、何を伝えたいのか、それを知っておくことで、着地点を弁えながら、すべての内容をどう伝えるかの判断が可能になるからです。いつどこに着くか分からないままに遠足に連れ出されたら不安ではないでしょうか。どうしてここで休憩を取るのか、どうしてここは急いで進むのか、一つひとつの行動の理由が理解できず、連れ回されるばかりだと、いま出会っている出来事の意味が分からず不安に陥るのではないでしょうか。いま目の前で起こっている事態は、目的に至るための何であるのか、これを知ると知らないとでは、心理状態が異なります。いえ、手話通訳においては、通訳者の不安というだけの問題ではありません。話が逸れても、エピソードが急に現れても、それが何を言いたいための礼であるのかを知っていれば、伝え方というものが決まります。やがてどこにつながっていくのか、全く見えないままに手話通訳をすると、重要なことを重要だと伝えることが難しくなるのです。通訳者本人が、分かっていないからです。
意味不明で言葉だけを手話に置き換えたときにたとえばどんなことが起きるでしょう。ろう者には、そのまま伝えても分からないものがあります。聴者が使う慣用句や諺の中には、ろう者が全く使わないものもあり、えてしてそのような喩えのようなものは、感覚が異なる場合が少なくありません。また、コンサート会場で「黄色い声」がしたというのをそのまま「黄色」「声」と置き換えても意味不明でしょう。「女性の喜ぶ声」のようにその文脈に合わせて伝えるはずです。音に関する形容は慎重になるべきで、その意味するところを「説明」しなければならないケースが多いと思われます。福音書の、屋根を剥がして病人を吊り降ろした話をそのまま文字にしただけでは、日本人ならばとんでもない破壊者だとしか思えないでしょう。「説明」が必要な場合があるのです。
そこで、私たちの考えている手話通訳者というのは、自分がろう者に対してメッセンジャーである、という定義になります。教会学校の生徒にとっては、教会学校の教師が牧師の命ずるままに担当しているにしても、その教師が自分の先生です。その教師の言うことと向き合っています。ろう者も、通訳者を見ていますから、通訳者の語ることが、神の言葉となります。言語変換マシンではないのです。そしてまた、通訳というのは上に挙げたように、日本語をそのまま手などの動きに置き換えたものではありませんから、通訳者の理解によりまとめたり言い換えたりもするものですから、通訳者がまさにメッセージを語っている本人だという図式になっているのだと言えるでしょう。
教会での手話通訳者は、福音を伝えることを目的としている。私たちはそう考えています。言葉の横流しではないのです。いまここでしか出会えないろう者かもしれない。少なくともこの時間を共有している中で、聞いてほしい神の言葉がある。聴者が味わっているこの良いニュースを、ろう者を仲間はずれにしないで伝えたい。語るということでなされている礼拝において、音による伝達ができない人に配慮がないということは、音が聞こえない者は教会と関係がない、福音など届けられなくても構わない、そのようなことが差別でなくて何でしょう。そんな排除を教会が正当化する理由が、どこにあるのでしょうか。もちろん、現状として手話通訳者がそんなにたくさんいるわけではないということも分かっています。だからその必要性を覚える意識も高まりつつあります。しかし、筆談でも何でも、できる限りの手段を使って交わろう、伝えようとする努力をすることなく、手話通訳者がいないから帰ってくださいと言ったり、ずっと放置したりすることは、現実にあちこちで起こっているわけです。ろう者のほうが、聴者よりもクリスチャンの割合が高いということさえご存じなく、ろう者は福音と関係がない、と弾く聴者の姿が現実にあるのです。そこに福音を伝える橋になりたいと願っている手話通訳者は、通訳マシンではありません。ハートをもった、霊に動かされたひとりの肉なる人間です。福音を伝える器であるつもりです。
手話通訳者は、耳で説教を聞きます。機械ならば、聞いた単語を手話に変換し続けていればそれで機能は果たしていることになるでしょう。しかし違うのです。いま聞いているその話は、さきほど言葉として語られた過去の話と結びつき、またこれから語られる未来の話と結びつきます。いま耳に聞こえた内容が、少しばかり過去と未来との間を行きつ戻りつしながら、厚みのある時間を保有した中で、手話という空間芸術的メディアによって、表現され、受け取られていきます。その時語られていなくても、「先ほどの本の話の意味を今説明しています」と加えもします。また、メッセージの主眼を予め知ってさえいれば、「これはとても大切な内容です」と伝えておくこともできます。あるいは、説教者が伝えたい内容が登場したときには、ゆっくり二度繰り返して手話で表現することもあります。ここを伝えたいという箇所が分かっていれば、それができます。
つまりは、手話通訳者も、語る説教者と同じスピリットで伝えている、ということです。機械ではありませんから、現れた日本語の音声を手話に置き換えるのではありません。語る者が、終わりにこれを言いたい、ということをずっと胸の内に置きながら、言葉を紡いでいくように、手話通訳者も、最後にこれだけは伝えたいという熱い思いを以てゴールを掲げつつ、その都度の内容を手話で必要な表現にしていくのです。いま伝えているこの手話は、やがて何を伝えようとしているのか。どこに着地するために、いまこのエピソードが必要なのか。耳で聞けば一定の時間の中で語るままにしか流れない時の中で、手話通訳者は、空間表現という特質をもった手話という媒体で、多少時間を行きつ戻りつ、あるいはタイムマシンに乗ったように時間に縛られずに、説教者のハートを神の言葉として伝えようという使命に従って、福音伝道者その人であることを願い、またそれを演じきっていくのです。
もちろん、手話というものに出会ったばかりの人は、まず単語や表現を覚えていく、それでよいと思います。五流以下の私でも、その経験が確かにあります。しかし巧い妻であっても、手話技能検定で通訳士の資格が立派に得られるほどの手話はできていないだろうと思います。公共的な仕事に与る手話通訳者は、どんな場合でも的確に内容を伝えるだけの標準的な技能が必要ですが、教会の手話通訳者は必ずしもそれがこなせなければならないわけではないと考えています。役割が違うと思うからです。もちろん、だからと言って技能をいい加減にしてよいのだという甘えや開き直りをしたいためではありません。基本は学んでいます。ろうの方から絶えずアドバイスを受けています。私なんかはちっとも上達せず間違ってばかりいますが、妻は準備をしっかりとし、練習も怠りません。生活の中で情報をきちんと伝えるための手話通訳士の優れた技能には常々敬意を払いながらも、そのプロ仕様とは少しばかり違うところを見ていて、特別な目的があるというだけのことです。かっこいい手話はできないかもしれないけれども、その手話によって、聖書の命をどうにかして伝える、それはできるのではないか。神の言葉を説教で伝えるというのが並大抵のことでないことは承知していますが、手話というでそれをやろうとしているのが手話通訳者であると理解しているのです。必ずしも雄弁で美声な説教者がよいわけではないのと同様に、見事な手話が福音を伝えられると決まったわけではないと思います。拙い手話でも、福音を伝えることはできるだろうと信じます。但し、そのためには、通訳者が説教者と同じハートを懐いた中で手話通訳を営んでいく必要があります。そのために、説教内容は事前に教えて戴きたい、できれば固有名詞があれば配慮を戴く程度で、とにかくこのメッセージの伝えたい福音は何かを教えて戴きたい。これが、説教内容を予め知りたいというお願いの理由です。
ですから、その点さえブレないのであれば、説教者は予定原稿に囚われず、自由に霊に導かれるままに、示されるままに、お語り願いたい。原稿と違うことに触れたら手話通訳者が困るだろうなどという配慮は無用です。むしろ、予定原稿に囚われずにふと説教者が漏らした、かつての自分のエピソードや、昨日家庭で起こったことが、実に印象的で、メッセージを彩ることになり、またまさに霊が導いたとしか思えないほどに、引きこまれ、聖書の理解を深めてくれるという経験を、これまでどれほど味わったことでしょう。伝えたい福音を説教者と共有(シェア)し、説教者と同労者としてそこにいること、それが手話通訳者としての私たちの願いです。そうして、ろう者の救い、平安、神の恵みの拡大が実現していくことが、何よりもの祈りです。どうしたら聖書の言葉を相応しい手話で表現できるか、を考える立場の手話通訳者たちもいるかと思います。それはそれで大変なことだと思いますが、私たちはそういう気持ちでは全くありません。聖書の言葉をうまく表現できなくてもよい、手話が雑で、間違っていてもよい場合があるとさえ考えています。説教者の伝えたい福音を伝え切れたらいい、それだけです。神と人とを結びつける間に立てたとしたら、本望です。手話通訳者は、良き通り管として、礼拝の場にいたいのです。それが、私たちの礼拝なのです。