敷居を低くするべきか
2019年2月3日
キリスト教会に注目してもらい、また人を招くために、「敷居を下げるべきかどうか」という話し合いがあるのを知りました。この問いはよくないと私は考えます。
まず、言葉の意味からしておそらく間違っているのではないかと思われる点。「敷居が高い」という表現の反対を言おうとしていることだと理解しますが、「敷居が高い」という言葉は、「自分に負い目があってその家には恥ずかしくて行けない」というような意味です。何か教会に対して悪いことを言ったりしたりしているから、とても教会に出向くことができない、という人々が、果たしてどのくらいいて問題となっているのかは、大いに疑問です。従ってまた、「敷居を低くする」ことはできません。そもそもどうすれば建物の敷居を下げることができるのか、私は想像ができません。
たぶん言いたいことは、その言葉の誤った意味によるものと思われる前提で以後お話ししますが、教会が気取っていて高級感があるから、もっと気楽にラフな気持ちで来ることができるようにするにはどうすればよいか、という議論のことである、と理解します。
このような言い方をすると必ず、「言葉は変化するものだ」と言う方がいて、古来の意味にこだわっていて現代的な使い方を否定するのは間違っている、との反論をなさるのですが、「あたらしい」ではなく「あらたし」だ、と言い張るのならばともかく、本来の意味で使う人が多々ある中で、なお「敷居が低い」というような言い方をすると、発言者が高慢であり、言葉を知らない、また品位がない、という評価を受けるのが、言葉の使い方というものです。そういう人物評価を受けるのは、発言者にとって決して得なことではありません。
いま高慢と言いましたが、この「敷居を下げる」という言い方は、よし現代的な誤用を認めたとしても、問題があります。つまり、自分の側が高級である、という前提でものを言っているからです。教会が世間よりも高級で価値があるので、価値を下げてやったほうがよいであろう、という発想に基づく言い方であることに、どうして気づかないのでしょうか。教会のほうが偉い、だから偉くない人も入れるように入口を低くしよう、これが誤用している意味にほかなりません。こんなことをもし言える人がいるとしたら、教会に行かない立場の人が、教会は気取っているし立派だから自分のような世俗な者は入りづらいねぇ、という時に使うならばまだアリなのですが、教会にいる側がこんなことを言うのは、高慢に聞こえないほうがおかしいくらい、奇妙なことです。
そのような言い方を自分がしていることに気づかない、問題はそのこと自体にあるのではないでしょうか。そもそも教会がそのような見方をしているからこそ、人は教会に近づかなくなっているのです。日本では明治期であれば、武士階級などエリート層が教会に流れた歴史があります。そのエリート意識が、どこか流れている伝統があると言われるため、キリスト教会というのは気取った裕福な人々の行くところだというイメージさえできています。それをやめたいという動機で提言されたはずなのに、依然としてその意識のままに「敷居を低くするには」などと言っているのですから、きわめて皮肉な情況になっているとしか言えないのですが、おそらくそのことに、発言者は気づいていなかったでしょう。問題は根深いのです(このきっかけとなった方は理解してくださったと思いますので念のため)。
今週、これに関するテーマで考えを述べてきました。キリスト教側が、つねに自分は正しいという前提からものを見、行動をスタートしてしまっているという点に気づくことを、ひとつの鍵にしたいものだ、というのがその要点です。現状では多くの場合、おとなが優越感をもって、子どもに、1+1を知っているか、だったらお菓子食べていいよ、とでも言うかのような図式になっているのかもしれません。キリスト者が、悔改めとでも言うべきかどうか分かりませんが、徹底的に自分を省みること――それはまた、主を見上げ、主にひれ伏すことでもある――から始めなければ、道はないと考えるのです。