神と聖書が正しいから私も正しいというのか

2019年1月30日

文章として書くことによって誰かを批判するのであれば、その人と会ったときに直に面と向かって同じ批判を語ることができること。私は「批判」という言葉には非難や中傷という意味を含めるつもりはなく、問題を解決すべき検討として理解していることを前提として言いますが、このようにできることを基本とするように考えています。もちろん、タメ口で遠慮会釈無しに話すというのはマナー違反です。気遣いの全くないような人間であることは、実際にお会いした方は理解してくださるだろうとは思います。
 
ただ、書くというのは、怖いものでもあります。多くの失敗を重ねてきたし、いまにしても、書いただけではとんでもないバカだと見られているかもしれません。あのパウロでさえ、書いたものと聞く話との間にギャップを与えていたといいますから、人間の語るものには、この差異は宿命的なものだとも言えましょう。それでもなお、書くという中で、多勢の中に隠れるようにして、ただ野次を飛ばすだけ、のように言論を考えるべきではない、と思うのです。
 
キリスト教世界の中から、この世や政治を批判する声がある。それは適切になされるならば、必要不可欠のことであろうと理解します。しかし、ただの野次でしかなく、現実にその相手を目の前にして語ることが決してないようなふうに、悪口だけを繰り返しているのではないかと疑わしい発言を目撃しないわけではありません。残念です。
 
そしてそのような発言によくあることですが、聖書と世、あるいは政治というものを対立させた構図にして、聖書が善であり規範、世や政治が悪であり背教的なもの、という図式で一方的な結論を前提としているかのようなものの言い方をしているように感じられてならないという場合もあります。
 
聖書に対して世が間違っている。確かに、それは聖書の基本構図です。聖書が神の言葉と信じる以上、神のほうを間違っているというふうに見なすのは、信仰として誤っているか、または不安定であるかというあたりになるでしょう。しかし、えてしてこの構図で語る人は、すでに大前提として、自分自身が聖書に立っていることが当然であるものとして、発言しているということが気になるのです。あるいは、完全に正しい預言者として自分が神の言葉を預かって、世を批判し、政治家を悪く言っている、とでも言えば分かりやすいでしょうか。
 
これでは、つねに自分自身を正義の味方だとする、聖書が最も悪だと見なしていることを、そのまま実践していることになりはしないでしょうか。イエスは、そのようなファリサイ派や律法学者、あるいは祭司長や長老たちと、命を懸けて戦ったのではなかったでしょうか。
 
これを世の側から見たときには、もっと残念な結論さえ導かれます。聖書を善だ、正しい、とは考えない立場から見た場合です。聖書はおかしい、と思う人から見れば、聖書を根拠に自分を正しいと吠えている者は、ただの自己中心的で世で最も迷惑な傲慢人間です。これでは、ファリサイ派どころの話ではありません。最も世の中で始末に負えない、独裁的破壊者と評価されても仕方がない状態ではないでしょうか。
 
私個人は、ファリサイ派ほどの立派さも持ち合わせていないと自覚しています。だのに、いつの間にか、ファリサイ派をやりこめているイエスの大樹の陰に隠れて、偉そうな口の利き方をしている自分に気がついて戦くことがあります。それはいままさにここでそうなのかもしれない、という点まで愚かな自分に呆れつつ、そうしています。何様のつもりだ、自分は何をしているというのか、立派に社会のために行動しているクリスチャンの方々に対して、何を偉そうに預言者気取りしているのだろうか、と自己嫌悪に陥るのも確かです。
 
でも、嘘はつかない。心に感じることは、与えられた視点は、隠さずに開く。自分はそのために、ここにいる。それしかできないが、それならできる。ひとの耳目を集めるためではない。おべっかが欲しいのでもない。無視されて当然、しかし誰かひとりでも、これを通して神から示されることがあれば、神と出会う扉を開く、あるいは神へと続く道を案内することができるなら、そんな道標として立っていたい、呼びかけたい、そのように願っています。
 
私たちは、正しい神を、正しい聖書を信じている、という前提に立っています。一応、それに同調する、キリスト教世界の側に立つところまでは、いまはよしとしましょう。しかしそれでも、聖書を読んだ、あるいは聖書から聞いた段階で、その正しさは狂う可能性があるということを忘れたくありません。何故なら、読んだり聞いたりしたのは、私たち人間であるからです。それなのに、聖書を信じていると自称する自分が発言するのであるから、つねに自分は正しいのだ、世が悪く、政治が悪いのだ、と思いなしてしまう、そこに罠があると捉えています。でないと、「俺は罪がないんだぜ」と無邪気に石を投げるようなことをする、福音書にも描かれなかったような極悪人に、私たちはなってしまうかもしれないのです。もちろん、この場合の「無邪気」というのは、最悪だという意味で使っています。
 
自分はこれを確信する。しかし、そのようには考えないあなたをもそれに必ず同化させようとすることまでをも、自分の確信することの範疇には入れない。ただ、あなたの言動については、面と向かってでも言いたいことがある。そうしないと、他の多くの人の不幸を招き、多くの人の心を壊してしまうと思うから、なんとしてでもあなたの目の前でこれは告げたい。そのような気持ちで、私は今日も綴ります。それが私のスタイルだからです。



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