聖書というテクスト
2019年1月24日
聖書と呼んでも旧約・新約が分かれ、またそれぞれの文書も記された時代は何百年もの時代差があるものもありますから、聖書が、二千年前前後に書かれたものだと単純に言ってしまうのはもちろん問題がありますが、ここでは「いま」と対比するために、そのように表現します。
聖書が二千年前に書かれたのは、その当時の、その地域の文化に根差した形でした。いま私たちは、そこから二千年という時を経て、文化も環境も、そしてその後の歴史も重ねた中という環境で、同じ聖書の文面を見て、あるいは聞いています。テクストとしても文献上いろいろな問題がありますが、とりあえず、テクストは一定としておきましょう。テクストとしてはさほど変化がない、しかしそれを読む人間が、別人であるということのほかに、読み取る背景や世界が変わってしまいました。
テクストは、それ自体が数式のように人類共通の概念に基づくものではありませんから、思考枠が違えば、同じテクストを通して考えることが一致しない宿命にあります。私たちは、当時書かれた意図が、当時の人々にどう伝わったか、あるいはそもそもそれが書かれて意図は何であったのか、を探りたくなります。これを考究しているとき、いまここにいる私自身は、その考察対象の外にいます。テクストと昔の人々との関係、あるいはテクストを記した人の考えを探ろうとしている訳ですから、それをいわば対象化していることになり、私自身とその対象との関係はすべて捨象していると言えます。
他方、テクストと自分との関係を気にするという読み方があります。二千年の時と環境や歴史の変化を跳び越えて、テクストと私とが直接関係づけられるということです。恐らくこれが、私の信仰と言えるものであり、私の信仰生活を支える基盤となるであろうと思われます。聖書のテクストが他人事の物語ではなくなり、いまを生きるこの私へと関わり、私に影響を与えます。テクストが私を変えるという事態が生じます。キリスト者は、このようにして、イエス・キリストと出会う体験を重ねてきました。そして、新たなキリストの弟子となり、キリストを生きるようになり、出会うものの中にキリストを感じるように生きることとなりました。
ここで罠があります。この私に呼びかけたそのテクストの意味を、私が出会ったそのフィルタで読み取ったそのままに、テクストがこうである、と自分のほうから規定してしまうことです。私が読んだ聖書、それが聖書というものである、と思いなしてしまうようになる罠があると思われるのです。すると、私が理解した聖書というもの、つまり私の聖書理解が、真理に成り代わります。そうして、同様にして他人が理解した聖書、つまり他人の聖書理解がそれと異なることがあるとき、それを否定するようになります。私が触った象が鼻の部分であって、他人が触った象が脚の部分であったとき、おまえの知る象は偽物だ、と互いに非難し合う危険性がある、ということです。
教会史、キリスト教史は、この点での争いによって刻まれてきました。権威を以て反対意見をねじ伏せるだけのものを有する、という仕方で、カトリックは継続する傾向があったのに対し、プロテスタントはえてして、意見の相違から離れていく形で別個の歩みをすることをよしとする傾向にありました。こうした捉え方はあまりにもざっくり言っておりますので、詳細はここでは気にしないことにしています。
それでは聖書をどのように解釈してもすべて互いに何も言えないのか、という疑念に対しては、プロテスタントとしても、苦汁がありました。異端という問題です。異端を設定するために、これはカトリックのみの時代もそうでしたが、基準を定め、その基準に合わないものを弾くという方法をとったと理解されます。その基準を決めるという営みは、聖書というテクストの外での出来事でした。
難しいものです。果たして聖書が、こうした関係を見越してこれをも描いていると言えるのかどうか。再び聖書の中にその根拠を見出すことができるのか。二千年にわたり多くの人間の知恵を駆使してここまで聖書をくまなく調べてきても、神の懐が深いというのか、汲めども尽きぬ泉の中を、依然として手探りで何かを掴もうとさまよっているような人間の姿。その中のさらに愚かなるひとりとして、ここに生かされている自分という存在。
ただ言えるのは、私が何かを規定したり、他人に言い及んだりしようとするとき、聖書からの声は、必ずしも後押しはしないということ。むしろ、ブレーキをかけてくるということ。それに対して、自分が神の前にサシでいるときには、アクセルをかけさせようとしているように思えること。
牧会をするというのは、私ならブレーキを強いられる場面でアクセルを踏めと命じられる中でしか行えないことであろうかと思います。神との関係が明確でない人がこのアクセルを踏むと、車は暴走します。あるいは、煽ってくることもあります。私たちがテクストを決めてしまうことは傲慢ですが、それでもテクストから聞くこと、その声の主とのつながりが定かであることについては、信が支えていなければならないだろうと見ています。