マイナーさと自己認識
2019年1月22日
難しいもので、偉そうなことを言えば、何様だ、と叩かれます。だから黙っていたならば、後から、どうして言わなかったのか、と責められます。とかく言論は難しいもの。少し人気が出てきたならぱ取り巻きが増え、もはや何を言ってもにこにこと肯定され、どんなにつまらないことを呟いても、注目が集まるでしょう。特にこのSNSで情報が瞬時に飛び交う世の中になった以上、扇情的と言うと失礼かもしれませんが、シーソーの片方にも一気に重みが加わる勢いが現れる場合が珍しくありません。
聖書に登場する重要な人物は、どうだったでしょう。預言者がマイナーであったことは読み取りやすいかと思います。王とその取り巻きに対して、隠れた知恵、顧みられない良心を表すような存在として、預言者が描かれていましたが、一般的には注目されることのない発言ではなかったでしょうか。そこで、現代でも、神を持ち出して論を持ち出すと、「預言者気取りだ」と叩かれます。あるいは、冷たく無視されるのがいいところです。
新約聖書の英雄パウロも、恐らくマイナーだったことでしょう。教団が一定の展開を果たす中でも、パウロはエルサレム教会からすれば異端的であり、片隅のやんちゃな部下であったと思われます。いまいくら私たちがパウロを持ち上げても、当時パウロはそんな意識をもつことは難しかったのではないでしょうか。
そればかりか、イエス自身、マイナーであったとすると、お叱りを受けるでしょうか。そもそも文献に、殆ど登場しないわけです。ユダヤ人の眼差しをもちあるヨセフスの中で少し触れられていますが、文献的に疑問視されていないわけではなく、またローマ市民としての著述でもあり、キリスト教徒側の書き方とはまるで違います。他でキリストの名が登場するにしても、キリスト教徒について述べたというのが実態であり、キリスト教外部からの証言に乏しいことには間違いありません。イエスの生涯の出来事は、外部の人々にとり、大したことではなかったのです。
ひとは、機会さえあれば、他者を支配する主人になりたがろうとします。世界とつながるインターネットの窓を前にして、時に、自分が世界を支配しているような錯覚を起こすということも考えられます。あるいは、自分が支持すると思えた人につながることで、自分が世界支配に参与しているかのような気分になるというふうでもあるでしょう。
自己認識がいっそう求められる時期にきているような気がします。聖書は問いかけます。
あなたはどこにいるのか。
あなたは何をしているのか。
あなたはどこに行こうとしているのか。
こうした問いを長らく忘れていることのないようにしたいものだと常々思うものです。