聖書通読
2019年1月8日
もう何年繰り返しているか分かりません。とにかく一年で一度聖書全体に目を通そう、とする試みです。こういうのは、ガイドがないとなかなかできません。気分に合わせて、読みたいときに読もうなどと考えていると、私なんぞは必ずサボり続けてしまいます。味気ないと思っても、また他人が決めたレールはどうもなどと思っても、何かしら基準を定めてノルマを果たしていくのが、一番の近道です。ここのところ、新しい聖書が続いて刊行されていますから、2019年は最新の聖書協会共同訳を利用することにしました。去年は、フランシスコ会訳を初めて使いました。これは注釈があってなかなか魅力的でした。
そもそもどうして聖書は通読したほうがよいのでしょう。何かしら目に入ったところを読んで、ああ恵まれた、と言っておけば幸せなのかもしれません。せいぜい礼拝で開かれたところを読んで、お話を聞いて、ああためになった、と聖書を身近に感じるのもうれしいものでしょう。
そういう人がいて悪いというつもりはありません。その人なりに神の言葉を受けとり、神に生かされているのなら、何も口を挟むことはできないでしょう。けれど、それはしばしば、ひとりよがりの思い込みへと暴走しがちなのです。従順に聖書に従う人もいますが、実のところ福音が魂の内に入っていない人の場合、聖書が分かったような気分になり、自分の理解の通りに神が動くというかのように、狂っていってしまいがちなのです。それも、自分が間違っているとは夢にも思いません。気づかないので、よけいにタチが悪いものです。
このリスクを避けるには、聖書を広く見ておくのが良い、とされています。すると、自分の思い込んでいた解釈とは違うものに出会います。果たしてそれはどうしてだろう、と考えていくことにより、それまで自分が気づいていなかったことが見えてきます。このことはいくらも繰り返されていきますので、常に自分の理解は仮説的なものであるというような態度を保つようになるのが普通です。自分の確信というものはあって然るべきですが、自分の理解が普遍的な真理である、とひとに押し付けるようなことを防ぐには、やはりこの路線のほうが安全であるわけです。
聖書に触れて初めのうちは、いろいろとにかく読みたくなるでしょう。けれども、聖書は教科書のようでありながら教科書ではありませんから、一生かかってもすべてを理解したり知り尽くしたりすることはできません。ただ、神から自分へ与えられたラブレターのようなものだと考え、自分の生きがいなのだと思っているならば、厭きるということからは守られます。難しい箇所も退屈な部分も、目を通していくことを拒む理由がなくなったとすれば、しめたものです。
一年に一度、というくらいがそう無理のない量でありましょう。もちろん、ひとによってはその時間をとるのも大変であるかもしれません。個人差がありますから、一概に決めつけはできないのですが、平均的に、それは可能なレベルだと思われます。難しければ二年に一度でもよいのです。とにかく、毎日のルーチンワークとする、それができれば、苦にならずに済むかもしれません。
何かしら触れておく、それだけでもやはりよいことです。礼拝説教で言われたことが、なんとなく読み飛ばしていたことと、有機的に結びつくことが起こるからです。それは、自分を変える力をもっています。喜びが倍増するチャンスでもあります。
旧約聖書3章と新約聖書1章というのが、一年間で読み終えるためのひとつの目安だと言われています。しかし、たとえば一日5分程度で一年かけてこれらが読めたとしても、それくらいに走るように読んだとすれば、内容の理解ができたようには思えません。それでも見ないよりは見ておくとよいわけですが、これとは別に、短い箇所でも、深く考えたり調べたりという習慣がもてたら、さらに良い効果があることでしょう。通読と精読とを合わせることができるなら、それをお勧めします。可能ならば、この精読において、複数の日本語訳聖書を開くと、多くの発見があることでしょう。私も何種類かの聖書を開く場合があります。時間がある場合ではありますが。なぁに、大変だとか意志がどうだとか言う前に、歯磨きや洗顔のように、ある程度毎日の出来事にしてしまえば多分は楽になります。
きっと、いまよりずっと広く深い世界が近づいてきます。そのために役立つような、通読のアシストとなりうる案内のサイトがありました。