信の始まり

20189年1月2日

他人が何を考えているか、私たちには分かりません。ひとの心が読めるならば、何も苦労はしないし、心配もいらないでしょう。しかしそれは、まるで他人をロボットか奴隷のように扱っているようなものだとも言えます。自分の思ったとおりに他人が動くなら、きっとつまらない人生になるでしょう。そもそもその世界に「信頼」というものは存在しなくなります。私たちの考える世界なるものが根底から崩壊するものと思われます。
 
だから、神の思いなるものは、なおさら分かるはずのないことです。神の能力からしても、私たち人間からは計り知れないとしか言いようがないわけで、全く何をどう知ることができるのだろうと絶望的になるくらいです。
 
そこへ……神からのメッセージが届けられました。イスラエル民族という存在であり、それを通じて遺された巻物の集まりでした。その後の人類は、それを特別な書と理解し、血眼になって、それを読み解こうと努めました。ただ、先走った思いでエリートたちが神の思惑とたぶん違う路線を暴走し始めたタイミングで、神はイエスを世に送った……。
 
イエス以前の特別な書に加えて、続編のような書を、イエスに関してまとめたことで、その後の人類は、イエスを中心にして、ひとりの神につながる道を与えられたのでした。
 
聖書、と呼ぶようになったこの本ですが、人間に関しては決して「聖」のイメージではない醜態をさらした本でした。「聖」とはどうやら、たんに「離れた」ものでしかなかったのかもしれません。
 
人の集まりは日本語では「教会」と言いますが、果たしてこの文字のもたらす感覚に合っていたかどうか、それは疑問に思われます。ただ、「教える」の暗示を受けたのかどうか知りませんが、教会はこの聖書の秘密を知っているというスタンスから聖書を語り始めます。そもそもその聖書に記録されている弟子たちの態度も、見方によっては傲慢なふうに見えるかもしれません。
 
神はこう言っておられます――聖書を片手に、教会で語る者はそう告げます。それが悪いわけではないのです。ただ、中には、神の意志を全部自分は知っている、自分の考え通りに神は考え、行動する、というような言い方に傾いていく場合があるのは事実です。そう語っているうちに、自分でもそう思い込んでいくし、聞く側も慣れていくとそれが快感になっていく……。
 
神は、これを諌めません。それをいいことに、人は調子に乗って、さらに続けるのです。「神はこう考えておられます」と。
 
「死人に口なし」という言葉があります。自分が神になりかわり、神のすべてを代弁しているかのように語り続けるとき、実はそのことが「神は死んだ」と主張しているのと同じことになりはしないでしょうか。
 
難しいのです。神の言葉を語るのはそのとおりなのです。それは神の言葉であるからには事実となるでしょう。しかし、自分の声が神の声だとして、神を殺すような構図を自分が描くとき、人間は再び聖書の中に描かれている、ちっとも聖ではないくせに、自分で聖だ、分離している、と自惚れているメンバーの役回りを果たしている者となっている、そんな道化師たちには、なりたくないし、なってほしくない。でも、心配であるわけです。
 
なぜ「信」というものがあるのか。「信」とは何なのか。私たちにできることは、問うことと、指し示すこと、そしてその上でなお、信じること。日々新しい私たちの歩みの中で、いま思うのは、そうしたことでありました。



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