眠れぬ夜
2018年12月31日
先日、夜に眠れなくなりました。夕方に飲んだコーヒーが、新しいフィルターのために粉を落とすタイプになっていて、それをたんまり飲んだのがよくなかったのか、と後で思いましたが、その夜当時はそれどころでなく、深刻です。
昔、私は実はそうしたことが多かったのですが、信仰に導かれてからは全くそういうことがなくなりました。しかしこのように、何か昂奮してか目が冴えて、一睡もできなくなるようなことが、ごくたまにあります。
翌日はハードな仕事内容でした。これは倒れるかもしれないと予感しました。いえ、私はその夜、「これで死ぬのかな」と思いました。心臓がドキドキして、妙に頭が冴えて、そしてそのうちに、頭の中を過去のことが次々と浮かんできます。
小さな時のことから、いろいろなことが思い出されてきました。忘れかけていたような出来事や人が浮かんできます。いよいよこれはやばいんじゃないかも思いましたが、浮かんでくる以上、浮かぶままにさせておきました。
懐かしい人、お世話になった人、迷惑をかけた人、かれられた人、そして、傷つけた人。いや、私が、傷つけたことさえ気づいていないような人が、たくさんいるかもしれません。いまのいままで忘れていた私で、懐かしいだなんて口にしている間も、ずっとその人は、私のことを忘れていないかもしれません。恨んでいてもおかしくありません。しかしまた、だからのこのこ謝りに行ったりしたら、どうして思い出させたのかと余計に傷つけかねないジレンマを抱えていると言えます。
忘却してはいけないこともありますが、忘却は人の心をガードします。なんとか持ち堪えるために、デリケートな心を守ります。それを破壊するような行為は慎まなければなりません。
悔い改めるというのは、何も反省しろということでないことは、承知しています。しかし、信仰に導かれた頃には、自分の中に示された罪、あるいは過ちといったものについて、告白して謝らなければ気が収まらないようなことがありました。もちろんその時にも、すべての人に頭を下げて回ったわけではありません。
が、ある会社に対して損害を与えたことについて、手紙を書いた後のことは、特筆すべきことだと考えています。夜、電話がかかってきました。私は許して戴き、涙しました。そのことで罪が消えたなどというふうに捉えることはないのですが、心が軽くなったのは確かでした。そのとき電話の方から、こういうことは時々あるんだ、と知らされました。キリスト教信仰をもった人が打ち明けるということです。私がしたくらいだから、それはほかにもあるでしょうが、この話もある意味で心強く思えました。
キリストの赦しは、これくらいのものではありません。比較にならないくらいのものなのでしょうが、私は、たとえ類比的に過ぎないにしても、赦されるというのはどういうことなのか、体験することができました。
多くの人が登場しました。きっと皆さんは私にお別れを言いに来てくれたのだ、とさえ思いました。そして、もし眠れないなら眠れないままでもいいや、と開き直りました。その後ずっと眠ることになるんだ、などと妙に落ち着いていました。
ハッと気づくと、仕事へと出ていかなければならない時刻でした。私は嵐のように服を着て、いつもよりひとつ遅い電車に向けて走りました。なんとか間に合いました。もちろんほぼ飲まず食わずで午前中を凌ぎます。その後も、特別にハードな予定の一日を、最悪のコンディションでやりぬくことになりましたが、不思議と、気持ちは晴れていました。
眠れない夜と雨の日には
忘れかけてた愛がよみがえる
オフコースの歌どころではなく、私はほんとうに眠れない夜を過ごしましたが、確かにその中で、忘れかけていたことがたくさん思い出されました。心の底に置き忘れていたものを見つけるために、大掃除の機会が与えられたのかもしれません。