それぞれの立場で

2018年12月25日

ひとには、精神的な成長段階というのがあります。果たして成長しているのか、たんに変化しているだけなのか、それはまた価値の問題となることでしょうが、ここでは一応成長と呼んでおきます。
 
幼いころには幼いなりの捉え方や考え方があるが、成長すると違うでしょう、とパウロにもあるように、信仰においても成長という考え方が聖書でなされます。但し、変化しただけを成長だと自己評価することについては慎重でありたいと思います。極端に言えば、堕落していったのを成長だ、と自認することは愚かであるからです。
 
信仰が与えられたときには、たいへんフレッシュな心でいる、そんなことがあります。純粋と言えばよいのでしょうか、なにもかも厳密に考えたい、きちんとやりたい、そんな思いです。憧れの学校に合格して入学したときのような、未来に希望をもつ時の心に近いかもしれません。
 
それがだんだん、慣れてくる。あるいは、ますます自分のダメさ加減が身に染みて分かってくる。いろいろなケースがあるでしょうが、必ずしも最初の時のような初々しい思いではやっていられなくなる。さて、このときにどう自分や他人を評価して、成長していくのでしょうか。
 
ああダメだ、と落ち込んでいくこともあるでしょう。そんなものさ、と開き直っていく道もあるでしょう。他人や組織への憤りに気を紛らすという場合もありえます。あるいはまた、社会に対して吠えるということも。もしかして、中には神へ文句を垂れ始めるという場合もあるでしょうか。教会や信仰を離れるという場合があるかもしれません。
 
それをまた乗りこえる時がくる。すると、背の高さほどの段をひとつ昇ったかのように、いままで見えなかった新しい景色が視野に入る。振り返れば、なんだ、そういうことか、と、いままで苦労してきたことのからくりがすっかり見通せて、それからまた振り向くと、これから先に拡がる世界が眩しく見えてくる。よし、また歩き始めよう……。
 
決して、振り返った世界で惑っているひとを見下したりしないで。もしかすると、少しばかりお節介なことをしたくなったりするかもしれません。でも、偉そうにしているつもりはないんです。自分だってなお、現状に喘いでおり、次の課題を前にして呆然としているような身なのですから。先を行く人から見れば、まだまだひよっこだよねぇ、という歩みしかしていないのですから。
 
教会は、様々なところにいる人が、不思議とちゃんと噛み合っていけるところなんだろうと思います。新しい細胞も、できたての細胞も、ともにひとつのからだの中でそれぞれの働きをしていくことでつながっている、そんなイメージです。9月に放送は終わりましたが、「はたらく細胞」のアニメは、ほんとうにそんなことを見事に考えさせてくれました。最終回は号泣していました。
 
それぞれの立場で、一人ひとりが価値がある。そのために酸素を堪えず送ってもらわなければ。聖書の言葉が、命となり、光となって、今日も供されます。心に、キリストが生まれたのであるならば。



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