天使

2018年12月23日

白衣の天使、森永のマーク(森永製菓の創業者はクリスチャン)、それとも我が子? 様々な天使がいる中で、本家本元といえば、中東の天使の文化でしょうか。少女マリアのもとに現れた天使には、珍しくガブリエルという名前まで示されていました。告知係なのでしょうか。ほかには、ミカエルという、戦いに長けた天使が登場することがあります。しかし、たんに天使と呼ばれたり、仕える霊のような言い方で聖書には随所に登場します。それと主とが錯綜しているように見える場合もあるような気がしますし、しかし、天使を拝むことは禁じるというような場面も見られます。
 
ギリシア語では「アンゲロス」といい、英語のエンジェルはそこからきています。福音と日本語で訳して(作って)いる元の「エウアンゲリオン」(エヴァンゲリオン?)の意味が「良い知らせ」というのは覚えていますか。ここに「アンゲリオン」というのがありますね。これが「知らせ」です。今の時代ならば「メッセージ」がぴったりくることでしょう。これが擬人化したような「アンゲロス」は従って、「メッセンジャー」と呼ぶのが相応しいことになります。だから、他の聖書では「御使い」と訳しているし、賛美歌の中にも「みつかい」というのが沢山あることが思い出されます。「主の使い」というような表現も見られます。
 
因みに、本来「遣い」なのかもしれませんが、「使い」のほうが使いやすい(?)かもしれませんね。「遣い」は直前に名詞と続けて使う(?)ものだというのが現代的な使用基準のようですが、そもそもどうなのかと問われると、国語の研究者に尋ねないと分からないかもしれません。
 
ところで、アンゲロスとは、神の言葉を伝えるメッセンジャー。いえ、Facebook絡みのツールではなく、ほんとうに神の言葉をひとに伝える役割を果たす存在ということでいきますが、聖書の中では本当にいろいろな形で登場します。復活のシーンでは特に印象的でしょうか。
 
日本神話の世界でも、神の使いとして橘や鹿、蛇なんぞもいるわけですが、そこにおける「神」というのは、自然の背後に存する霊的な存在一般の中に見出されますから、何かしら直接見えない存在が人間に関わるために、間をとりもつ者という意味で、神の使い(神使)が考えられていたものと思われます。時にその神使自体が神だとも考えられたかもしれませんが、このあたりの構図は、聖書と少し似たところがあると言えるかもしれません。
 
しかし聖書の「神」はこうした背景とは全く違います。中国で聖書を訳すとき、「神」とするか「大帝」とするか、対立する声があったそうですが、日本でもこの流れから、「神」を採用しました。これは「精神」「神経」という言葉にあるように、魂や心のようなものを表す文字だったようで、いまもって「神」でよいのかどうか、キリスト教界でも議論に上ることがあります。だから、巷で聞く「神!」というのは、案外その言葉の元の意味を継承していると言えるのではないかと思われます。
 
聖書の「神」は、本来の「神」の意味を離れ、唯一の創造神を以て考えられていますから、人間との間には決定的な断絶があります。神を見た者は死ぬと言われていたほどに、神は人間と接するということがありえないという概念の中で捉えられていたわけです。そこで、神と人とをつなぐもの、間に介在してコミュニケーションを成立させるためには、アンゲロスなる存在が必要とされたのではないでしょうか。
 
アンゲロスは今風ならメッセンジャーであると言いました。教会での説教を昨今はメッセージと称することがあり、時にそれを語る人をメッセンジャーと呼ぶこともあります。神の言葉を語る、それがメッセンジャーであり、神と人との間に立ってつなぐ働きをする、そういう意味を考えると、説教者の仕事は重大であることが分かります。神の言葉が出来事となる……などというと、ドイツ的な説教論になってしまいそうですが、私たちは礼拝のメッセージを、神からの問いかけとして受け止め、またそれにレスポンスしていく姿勢が必要であるということになるでしょう。
 
その意味で牧師は天使になります。私たち一人ひとりもまた、天使になります。誰かに聖書の内容に基づくことを話す時です。ならば、私たちは天使であるべきです。いまだ神と出会っていない人に対して、その人と神とが結びつくための道を備える、間をとりもつ役割を自分が担う場面において、私はきっと、天使になるのです。いや、これは半分冗談ですが、半分は冗談ではありません。
 
もちろん、それを預言者と呼ぶこともできるでしょう。預言者は「ナービー」です。カーナビとは関係がありません。語源は諸説あるようですが、「語る者」という考え方もあると聞きます。そこには、神の代わりに語る、というニュアンスが伴っていたとの理解も可能です。未来を予言するのとは全然違うわけですね。そして、その意味では、預言者も天使も、働きからすれば似ていることになるでしょう。
 
但し天使という世界は魅力的なので、人間は昔から、天使についてさかんに考えたり調べたりしました。神秘主義思想の格好のネタになったのも分かりますし、神ではないが人でもなく、天使には重さがないとか、針の上に天使が何人乗るかとか、暇なのかどうか、いえ、神学に関わる大切な要件として、いろいろ議論もされたようです。
 
天使を礼拝してはいけない、ということは、特にコロサイ書で言われていますが、確かに礼拝という意味では、天使は対象ではないでしょう。だから、聖書を語る者も、神の言葉を語りつつ、だから神と出会ってほしい、と、自らが出会った時のことを証ししながら、毎度毎度、天使の仕事をしていることになる、などと言うと、プレッシャーになるでしょうか。
 
ところで、天使に羽があるのは何故でしょう。これは様々な文化の中でそういうのがあったらしい背景があり、また、神的な存在に相応しいものと特にイスラム教で取り上げられた影響が大きいという話もあるようです。元々は羽も光輪(天使の輪)もなかったそうですが、こうしたことには、もっと詳しい方がいらっしゃるかもしれませんね。



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