クリスマスとは何か

2018年12月19日

クリスマス。それは信仰を与えられる前からも、わくわくする楽しいイメージで迎えられるイベントでした。イエス・キリストに出会い、聖書と向き合うようになって、そして教会に居場所が与えられるようになって、クリスマスの迎え方はまるで変わりました。ベクトルの方向が、まるっきり違うものとなった、ということです。
 
牧師なども、クリスマスこそ伝道の機会と緊張し、そのテンションが上がると、連日の疲労もアドレナリンやドーパミンの分泌の故か、クリスマス期間には感じないようになっている恐れがあります。だからお体を大切に……ということを言いたいわけではないのです。
 
誰も口にしづらいことだから、でも、誰かが言わなくてはならないと思うから。私はそういうことを告げる役割を与えられていると考えているから、不愉快さを与えるであろうことも、敢えて語ることとします。聞くに耐えないとお思いの方は、そこから先はお読みにならないで結構です。
 
クリスマスのために、教会は盛んに催しを企画します。12月は毎週がアドベントという名で、期待が高まるムードが盛り上がっていくし、クリスマス礼拝と共に行われる祝会、また24日夜のキャンドル・サービスの準備のために、とにかくすることがたくさんあるわけです。以前それを揶揄して、「クリスマスは苦しみます」といったフレーズも流行りましたが、それはもはや冗談にもならないくらい、当たり前のことになっていないか、振り返らないといけないのではないか、という提言です。
 
歌や劇、その他出し物のための準備が始まります。料理や会場準備などのためにもいろいろ計画され、役割が分担されます。青年会など独自の出し物が要求されると、そのための負担も増し加わります。小さな教会だとその役が重複するわけですが、少々大きな教会になってもそれはさほど変わらず、聖歌隊や演奏など、ふだんの奉仕に加えてクリスマス独特のものが加わり重なってきます。また、個人の得意技を披露するのでない場合が多くなり、練習だ準備だと駆り出されることが普通になるでしょう。主日の礼拝が終わった後は、何時間もそのことに忙しく携わり、どうかすると他の曜日にも呼び出されるということにもなりかねません。失礼に聞こえるかもしれないことを覚悟で申し上げますが、世の忘年会の代替物としてクリスマス祝会を開いているようなところが、全くないと、言える教会は幸いだとさえ思っています。
 
信徒は、自分の仕事や日常を抱えています。特にこの年の瀬は、昔ならば借金精算の攻防の時期だという事情もあり、昨今でも年越しのために業務が非常に慌ただしく展開していくことが少なくありません。これだけやらないと年が越せないぞと脅されるようにして、残業を重ね、またそれまでにないような負担を強いられている場合もあるでしょう。家庭でも正月の準備や計画で、普段以上にするべきことが増えるのが普通だとすれば、へとへとになるのも無理からぬことです。
 
でも、歌いませんか、劇にぜひ、と誘われると、断れない。そう、断れないですよね。よほど何か理由をあるのでなければ、みんながんばっているのに、という状況の中で、自分だけが抜けるわけにはゆかないという思いに支配されてしまいます。「いや、しんどいならばちゃんと言えばいいじゃないか」とお思いですか。それだから、パワハラというものが問題になるわけですよ。断ることができない立場というものが、あるいはそういう空気というものが、あるのです。それに教会の場合、それが脅迫めいたものとして漂っていることに、リーダー格の人が気づきません。「断ると、信仰が薄いと言われるか思われるかするだろう」という点です。クリスマスなんだから・教会のために・喜びの時ですし・いろいろなこともきっと神さまがよくしてくださいますから、そんなふうな反応を恐れ、言い出せないでいるような人は、いないと断言できるでしょうか。いえ、しばしばそうしたふうに考える人こそが、教会に救いを求めて集まってきていたのではないでしょうか。
 
時間があって、生活に困っていなくて、時に社会的地位があって、どうかすると役職や教職など、自分より下の立場の人を相手に仕事をしている場合、皮肉なことかもしれませんが、えてして、下の立場の人の心理が、実は読めていない、ということがあります。牧師とて、最も仕える者だ、と説教では謙遜な言葉を口にする人が、実のところ見下しているという危険性があり、またそのような言動が要所要所で出てしまうということも珍しくないかもしれません。
 
礼拝の後、断れずにまた午後もしばらく縛られるのかと思いつつ、いやそれではいけないぞと自分の中で葛藤して暗い顔をしているような信徒、実際疲れた信徒はいませんか。いないと断言できますか。気づいていないだけではありませんか。疲れていませんよね、皆さん、などと壇上で冗談めかして尋ねても、疲れています、などと反応できるようなケースは、まずないのです。精一杯の想像力と思いやりとをもって、人の気持ちを考えていく心がなければ、気づかないのです。
 
クリスマスなんだから、みんなで祝いましょうよ。その論理は分かります。分かっています。当然そのように教会と指導者、積極的に活動できる人は考えることでしょう。それはそれでよいのです。けれども、それが重荷になる人もいるのです。また、何か問題を抱え、悩んでいる人がいたとき、それどころではない、ということもあるでしょう。その場合も、こんなことではいけない、と思っているのは恐らくその人自身なのであって、そこへ、それは不信仰だというような眼差しで迫って来られたときに、どんなに心苦しいか、それを、たとえ自ら体験がなくても思いやる、そういうのを愛と呼ぶのではないでしょうか。クリスマスに語られる愛が、いつの間にか昔話のフィクションとして、語る者が対象化して描いたような物語になってしまっていないか、問い直すことがあってもよいと思うのです。自分が関わらない物語としてのクリスマス・ストーリーが宙を舞う。自分の出来事とは決してならない、神の愛が巧みに語られる、そんなクリスマスになっていないかどうか、見直しませんか。クリスマスは、へとへとになっている信徒がしみじみとその愛を感じ、立ち上がり、あるいは歩み出す力を与えられる、そんなメッセージと教会生活によって実現する、キリスト-礼拝のことをいうのではないか、と提言したいのです。
 
どうか、もう一度福音書を読み返してみてください。問題意識をもって、読み直してみてください。クリスマス騒ぎで疲労困憊している信徒と、当然教会なんだからクリスマスを盛り上げましょうよ、と持ちかける自分と、その図式が、どのような場面のどのような人々に、重ね合わされてくるものか、と考えながら。
 
イエスは、そのどちらの側に立って、どのように声をかけたと思われますか。いえ、もっと斬り込みましょう。福音書のイエスは、教会のクリスマスのイベントの場にいたときに、どういう思いを懐き、どういう言葉を漏らすと思いますでしょうか。そして誰を助けようとなさるでしょうか。
 
 
矛盾するようですが、私自身がこの提言のどこにいるか、それは敢えて説明致しません。ただ、私自身が必ずしも疲労困憊していてその不満をぶつけている、というのではないことだけは、付け加えておこうと思います。自分の感情で申し上げているのではない、ということです。
 
クリスマスとは何でしょうか。教会は「ほんとうのクリスマス」と町に呼びかけていますが、ほんとうに今年ここまで準備してきたものがそのクリスマスなのでしょうか。問うて戴きたいということです。



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