愛は意志である

2018年12月11日

「愛は意志ですよ」というメッセージがあります。ひとは生身の感情や性質で、聖書が求めるような愛を実行できるはずがない。自分が愛せない、その相手を愛するためには、意志が必要なのだ、というような主旨だと思います。
 
けれども、愛はそのようなものなのだろうか、とも思います。もちろんイエスはそのようにして愛したわけではありません。それはイエスを、ただの「人」として規定してしまうことになるでしょう。イエスは愛したくない人を「ええい」とばかりに首を振って愛さなきゃ、などと考えたのではないようにしか見えません。しかし、私たちもまた、「愛さないといけないぞ、ようし、私は愛するのだ」と構えてから行動を起こすのであるかというと、そればかりではないような気がします。
 
「神」という語もそうですが、「愛」という言葉も、聖書を通じて使われるようになった意味は、それまでの日本語が指し示すものを凌駕していました。歪ませた、のかもしれません。「愛」が「めず」であるのなら、それはアガペーではなく、思慕する方向のエロースに匹敵すると理解できるでしょう。また、それでいながら、自ずからという趣もそこに含まれているとすれば、当然それは意志とは関係がありません。
 
ではアガペーは意志なのでしょうか。愛は意志である、と説教されるときには、意志というのは、「感情に反して」働くべきもの、という思惑が隠れているような気がします。カントの道徳は、自然界の因果関係を破るもの、つまり人間がその感情や傾向性に従い流されるままになるのではなく、それを破る命令がある、とするものでした。それが道徳であり、破ることができるから自由があると見なす余地が理性にはあるのだ、と考えるわけです。人間は、ほうっておけばそのように動いていってしまうであろう因果の鎖を解くことができるのだ、と。
 
しかし、それが即ち意志なのだ、ということにするのは、いかにも近代的な考え方であるような気もします。自由を考えるときも、それは意志なのだという制限を要することのようには思えないのです。もしそれが意志なら、こんな点を考慮する必要があるでしょう。意志には、どうしても責任概念が伴います。自分で決めたこと、自分がその結果の責任を担う覚悟があってこそ意志をもって決意し、行動したということ、私たちはの思考はその方向にどんどん走って行きます。
 
神の愛が意志であれば、神はそのことに責任をもつであろう。そう。神が人を愛した。神は無条件の愛で愛したはずだった。一方的な与える愛であるのなら、人が神を愛することを求めるはずがなかったのだが、人が神を愛さないことにより、神は怒りさえ懐いた。ところが神はその一種の感情に自ら責任を負う。自ら痛みを覚える出来事を企画して、人を赦すことにした。神の意志が働き、その責任を自ら負った……。
 
この筋書きが相応しいようにはなかなか思えないのですが、近代的な解釈は、こうした路線を好むのではないかという気もします。
 
それにしても、こんな大それたテーマを、少々の文章で論ずることができるはずがありません。断片的に放り投げるようで申し訳ないのですが、この筋書きの中に割り込んできて然るべきなのが、イエス・キリストであるべきです。キリストは人をどのように愛したのでしょうか。それは教義的に一律的なテーゼとはしたくない気がするのです。一人ひとりが出会える形で、神はキリストを世に遣わしました。それぞれの人が、それぞれの仕方で、キリストと出会って、それぞれに見合った形で愛され、また愛を知って――体験して――いくのです。
 
クリスマスは、語る者が気づかないほどに、関わる人それぞれの中で、愛を体験する機会であるようにも感じます。



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