祈る姿
2018年11月19日
福岡、いまの福津市に、かつて恋の浦という公園がありました。いまはまた別のスタイルになっているようですが、当時は恋人たちの聖地のようにも見られ、賑やかな時もありました。そこに彫刻の森と確か呼ばれた、彫刻像があちこちに立ったエリアがありました。
次男が幼い頃、つまり京都から福岡に戻ってきて間もなくの頃だったと思います。次男が、ひとつの大きな像を見上げて、口にした言葉を忘れません。
「だっこして、っていっている」
その像は、修道士だったと思います。祈っている姿を表すタイトルが付いていたと思います。
……今、違和感を覚えた方、いらっしゃいましたか。祈っている姿が、「だっこして」と次男は言ったのです。そう、両手を天に上げ、もちろん顔を天に向け、祈る姿でした。おそらく、旧約聖書で祈るというのは、この形であろうと思われます。荒野で見渡す限り何もないような世界、それは人間の世界です。神に顔を向けるというのは、この世界を超えたところ、空に神がいるという意味ではないかもしれませんが、人間世界を超えた天を思うというのが、聖書の神感覚ではないかと思われます。いまもユダヤの祈りにはこういうスタイルがあるのではないでしょうか。
日本でこのような祈りをすると、やれ激しい聖霊派なのか、神秘主義か、感情で祈っているのか、などと非難をする人がいます。しかし旧約聖書でも多くの人が、手を上げて祈っている様子が窺えます。手を組んで下を向き、あたかも自分の心と対話をするかのようにぶつぶつ言う、それも意味がないわけではないはずですが、それがすべてだと決める必要はどこにもないのではないでしょうか。
神と向き合う。神と出会う。時折これが分からないという人がいます。何もそうした人がいてはいけないとは申しませんが、こうした人が神の言葉を取り次ぐことは、残念ながらできません。現実にそうしたことがあるので、用心しなければなりません。恰好で決まるものではありませんが、私たちはこの、両手を上げて祈るということに、目を開かれてよいのではないと感じます(テモテ一2:8の「男」という限定めいた表現はいつもちょっとためらいを覚えますが)。
それは賛美においても同じです。口を大きく開ければ神がそこに恵みを満たすという約束もありますし、そのためには上を向かないと無理でしょう。手を上げなければ賛美ではない、などとは申しませんが、それを拒むような思いや言動は、もしかすると満たされない自分の状態から出たやっかみであるかもしれません。すったもんだの末にダビデの妻のひとりとなったミカルは、神の箱のことで喜び躍るダビデを蔑み、軽蔑する皮肉を口にしたために、神の罰を受けました。
さて、私がこの次男の「だっこして、っていってる」の言葉が忘れられないのは、その時にいたく感動したからにほかならないのですが、何を私たち親はそこに感じたのでしょう。幼子にとり、「だっこして」というのは、自分の存在すべてを親に委ねることです。親が落とせば自分は怪我をするでしょう。しかしそんなことは子どもは微塵も考えません。そして抱かれていることで安心します。だっこして、と頼むことは、自分を相手に任せることであり、相手に支えてもらい、助けてもらい、愛されることを意味していると見られるでしょう。私は何もできません、すべてをあなたに任せます、そのような依頼であり、信頼でしょう。
祈りとは、まさに神に向けてそのような告白をすることであり、神に委ねることである、と考えることができます。祈りも賛美も、そしてこれらすべてを包む信仰も、この愛を求め、これから抱かれる幸福感に希望をもつことです。「だっこして」とは、ひとが神に告げるべき最も相応しい信頼の言葉である、と見ることもできると思うのです。
このような見解を、神はきっと否定なさらないだろうと思いたいのです。