やもめ

2018年11月18日

【旧約聖書続編・シラ書35:14-18】
主にわいろを贈ろうなどとするな。お受け取りにはならないから。
不正ないけにえを頼みとするな。主は裁く方であり、
人を偏り見られることはないからだ。
貧しいからといって主はえこひいきされないが、
虐げられている者の祈りを聞き入れられる。
主はみなしごの願いを無視されず、
やもめの訴える苦情を顧みられる。
やもめの涙は頬を伝って流れているではないか。
 
ユダヤの知恵は、弱い立場の人の叫びを神が聞く、という方向でよく現れます。それは、そもそも申命記7章6-8節で次のようにイスラエルの民に向けて、主が宣言したことと関係していると思われます。
 
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 
しかし、イエスの時代、エリートたちは、律法を守ることのできない弱い立場の人々を抑えて、自分を誇るような状態であったことから、イエスはこの元来の神の慈愛を掲げて闘った、と見ることもできるわけです。
 
しかし古代のこと、女性の立場は法的には頼りないものでした。労働力としては経済を支えるだけのものが与えられず、夫に死なれることが死に直結するというような社会的状況がありました。その上で息子にも死なれた女性が、もう救いようもないほどに泣いていた場面に遭遇したイエスの心は如何ばかりだったことでしょう。旧約聖書には、預言者が、生活苦に陥って子どもと死ぬしかない状況のやもめを助ける話も記録されています。
 
また、女性は裁判の証人にもなれませんでした。だから、新約聖書がイエスの復活の証言を女性にさせているなどは実に画期的なことだったと思われます。
 
民数記27章に、こんな話があります。マナセ族の娘5人が、モーセたちに訴えるのです。父に男の子がないことで、父の名が氏族から削られようとしているから、娘たちにも所有地を与えてほしい、と。名は、土地の所有に基づくものであったのです。モーセが主に尋ねると、主は答えます。娘たちの言い分は正しいから、訴えの通りにせよ、と。しかしまた、民数記36章になると、今度は男の家長たちがモーセに訴えます。娘が土地を継いだ場合、その娘が他の部族の男と結婚したら、土地が他の部族のものとなってしまう、と。モーセはそこで、同じ父の部族の男としか結婚はできない、土地は守らねばならない、と答えました。
 
限定付きではありますが、イスラエルでは女性の権利がいくらかは認められたのでしょう。もちろん、女性の預言者も旧約聖書には描かれているし、敵将の頭に鉄を打ち込んだり、首を切り落としたりするという美女もいるわけで、法的なことはともかく、旧約の時代から聖書はかなり女性を重要な存在として描いていると見ることもできようかと思います。現代的な観点から、差別されていた、と評するのは簡単ですが、聖書が女性を扱う姿勢は、必ずしも非難されるばかりではないかと考えます。
 
先にも触れましたが、夫を失った女性の生活は厳しいものであったことでしょう。「やもめ」と訳されている語は、妻を失った男にも使える日本語です(ただし男の場合、元「やもお」だったという話もある)が、寡婦という語がいま法律では使われているのかと思います。かつて女性の場合には「未亡人」という言葉もあって、まだ死んでいない人、というような失礼な言い方であるような気がします。
 
ルカ18章の場面では、このやもめが裁判官のところを何度も訪ねます。裁判官から見ればしつこいと思うでしょうが、やもめにとっては生きるか死ぬかの切実な求めです。裁判官が「不正」であったことはここでは話題にしませんが、そもそも女性が裁判に訴えることができたのかどうか、そこが気になります。一般に中東社会では、女性が裁判所に訴えることはできませんでした。男が代弁しないといけなかったのです。この状況で、誰にも頼れない女性が、法的に「できない」ことをやっていた点を重く見なければなりません。このようなことは、現代の中東社会でも、女性の権利が抑えられている以上、ありうることだといいます。そして、それは法的に「できない」ことであったが故に、逆に、法的に処罰の対象にもならないという論理が成り立つことにもなります。だから、イエスの十字架のそばに弟子たちがのこのこやってきていたら(ヨハネはどうなんだか知らないが)、捕まえられたことでしょうし、だからこそ弟子たちはイエスを捨てて逃げたわけですが、十字架のそばに女性たちは集まることができたと思われます。
 
不正な裁判官だといいますが、ここでは賄賂を受け取るような事態ではありません。女性はただ何度も何度も、恐らく大声で門を叩き続けただけです。女性はそもそも法の中で「できない」ことをしていたのですから、不正にやっていたのではないということです。法とは律法と同じ語でしか考えられない概念です。世の法を違反することを推奨しているのではなく、教会は不正を支援するような真似はしない、とルカは示さなければなりません。ルカによる福音書が、テオフィロなる官吏であろう人物に宛てて書かれる体裁をとっている以上、教会は非倫理的組織であってはならないのです。その中で、これはたとえ話とはいえ、現実に決して起こり得ないおとぎ話をイエスが語ったとは思えません。このような女性を取り巻く社会的背景を踏まえて考えることは、時に大切な解釈の分岐点となるでしょう。
 
尤も、牧会書簡になると、このやもめが教会でどういう立場でどうあるべきかなどが大きな問題となっていた様子も見てとれ、やもめの定義すら試みているところもあります。ふしだらなやもめへの処遇が教会で問題になっていたというのです。
 
いまではどうでしょう。揶揄するつもりはありませんが、夫を見送った女性がいきいきと生きている姿が挙げられることもあります。それに対して、妻に先立たれた男は一般に弱く、長くは生きられないような言い方をされる場合もあります。どうぞ、ご家族を労り、大切になさってください。



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