罪、罪、罪

2018年11月17日

教会に行くと、罪、罪、と言われる。それが嫌だ。
 
かつて、教会に来てみたものの不快に感じて去っていく人が、こんなことをよく漏らしていたと言います。罪というのは、信仰に入るために通らないで済ませられる問題ではないはずなのですが、多分に、日本語で言うその語の意味と、教会や聖書が使う場合の意味とは、食い違いがあると思われます。
 
翻訳語の問題もそこにはあるでしょう。そもそも「神」すら、訳語として適切であったかはいまなお議論に上るくらいで、すでに母国語で定着しているイメージが、そのまま乗り移っていくことは避けられないとも言えるでしょう。
 
罪と犯罪とは違います、という説明も教会はするでしょう。すると、今度は罪は道徳のようなものとして受け取られるかもしれません。そして、信じて洗礼を受けたという人ですら、罪をどのように認識しているか、それは傍からは分からないと言わざるをえないわけです。
 
2つの極端なケースを考えます。クリスチャンと自称している中にも、罪という門を通過することがなかった人がいます。口では罪人ですなどとも言いながら、全くの形だけというケースがあるわけです。しかし、そこには、罪というのは何かという理解の上記の問題が潜んでおり、果たしてどう罪を定義すればよいのか、という点については、検討すべき余地があるとも言えます。
 
そこで、いまここでは、罪をひとつの加害行為や加害意識であると限定してみましょう。やはり普通は、そこから自らの悪を認めるという入口である場合が多いと思われるからです。
 
そうなると、この第一の問題のケースは、自分が加害者であるという意識がまるで欠けているタイプです。私もイエスに出会うまではこのタイプでしたから、精神構造が分からないわけではありません。しかし、クリスチャンと自称していながらも、このタイプに留まっていると、非常に厄介です。イエスの十字架の犠牲により罪は赦されたのだという教義を受け容れていますから、自分が加害者になることはない、あるいはたとえなっていたとしても何も気にすることはない、という発想で過ごしていけるからです。自分の加害意識を欠いていますから、実に無邪気に自分を膨らませ、止めどなく自分を肯定し、他人を否定します。もちろん私もこうしていろいろ苦言を呈していますが、それは誰か特定の人をターゲットにしているというよりも、陥りやすい考え方や在りようについてのことです。しかしかのタイプは、自分の気に入らない意見をすべて頭から否定してかかり、自分の価値観に合わないものを馬鹿呼ばわりすらします。自己愛の塊と化してしまうわけです。もしそれを窘めようとでもしたら、ひとを裁くおまえはなにものか、と逆ギレできるだけの知識をもっているだけに、非常に厄介です。
 
もう一つのタイプとして、加害意識が強すぎるということがあります。何事も自分が悪い、という口のきき方をして、信仰生活に喜びがあるようにはとても見えず、自己肯定感が欠けているタイプです。これは、信仰の段階としてはある意味で必要なもので、自分の罪を噛みしめて生きるということは、むしろ福音のためにあって然るべき姿勢であるという見方ができるでしょう。そして当人も、そのことを知っています。だから、自分が悪い、自分は罪人だ、というところから何事をも考えることになります。一見、謙遜なようですが、気をつけないといけない場合があります。それは、そのような態度でいることで、他人に「そんなことはないよ」と言ってほしい、認められたいという心理が潜んで支配している場合があるということです。これもまた厄介になります。自分は罪人だから謙虚にしている、ところが他人が罪を犯して平然としている、そのときに、機会があれば、その人を徹底的に糾弾する側に立ってしまう可能性があるからです。先鋒として非難するつもりはありませんが、実にこっそりと目立たないようにしてでも、誰かを糾弾する勢力で力を及ぼすのです。自分が罪人であるのなら、同じように罪人である人に共感を覚え、助け合うような方向で動くこともありうると思うのですが、そうはせず、自分の中の正義感がついに表に立っていってしまうのです。
 
どちらのケースも、罪ということについての根本的な無理解があるのに、イエスの救いということをなんとなく自分のものとしてしまったために起こる、少しばかり見た目は違うけれども本質が似かよったもののように考えられます。人の性は、何か事態が起こったときに、つい出てきてしまいます。どちらのケースも、他人の悪を知ったときに、自分を正義とするチャンスと感じていく点は似ています。
 
ダビデは、戦争の天才だったと思われますが、人間としてはかなりダメな様相をしばしば見せてしまいます。しかし罪ということについて、神はダビデを必要以上の扱いで責めることはありませんでした。かの2つのタイプの人でしたら、ダビデが神に愛された理由や背景について、理解ができないのではないかと思われます。
 
罪ということは、もっと教会で語られなければならないし、その時に、日本語のイメージで塗り潰されないように、語る者が確信をもって、また適切な罪理解をもって、語る必要があると思われます。難しいけれども、教会で語らないわけにはゆきません。そして、どう語るかによって、イエスとの出会いの準備を調えることもなされるでしょう。それは、教会の初めて来た人ばかりではありません。洗礼を受けた人、信仰暦の長い信徒についても、必要な教育であるはずです。実に教会は、礼拝と教育ということにおいて、一つであるように営まれていく場であって然るべきだと思うのです。



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