七五三、そして
2018年11月15日
七五三もなんだか変わってきました。15日が休日でないから、と前後の日曜日にずらす、というのならまだ分かりますが、先般聞いた神社では、11月最初の日曜日が七五三なのだ、と人を集めていました。
確かに11月15日という形は、江戸時代に起源をもつという説があるほどで、古来の曰くがあるというほどでもないらしいのですが、もちろん当時は旧暦でした。今ならばクリスマスあたりになるのではないでしょうか。
但し、この15日というのは、旧暦ですから、満月にあたります。収穫期の満月に何か意味がこめられているのかもしれませんが、新暦の11月15日では、そもそもそうした背景もすべて無視してしまっていことになります。また、女児が3歳と7歳、男児が5歳などともいいますが、これも本来数え年のはず。満年齢でやりがちな現代であれば、もう様々な意味で形だけとしてずれまくっていることにもなりかねません。
子どもに着物を着せて記念写真を撮る。和やかな家族の姿でもあります。何かしらこうした「ハレ」の時がなければ、思い切ったことができないという考え方もあるでしょう。
教会に連れてこられている子どもたちは、さすがにその親は、神社でお払いをしてもらうというふうには考えないものです。しかしそうなると、お友だちが着物を着て祝福してもらっているのに自分は教会に行っているからそういうのがないんだ、と寂しい思いを抱かせることにもなりかねません。教会でも11月のこの時期に、子ども祝福式を行うところがあります。聖書に根拠をもつ、時期設定ではないようなのですが、思いやりの気持ちからならば、咎める必要もありますまい。
しかし信仰ということを厳しく捉えるグループでは、そんなふうには考えないというところもあります。聖書にないことは罪だ、として、どうかすると教団が人心をコントロールするためにとしか思えないような仕方で、厳しく統率しているらしいのです。近年、エホバの証人をやめた人がマンガで、そうした実態を描いたものがいくつかあります。気の毒ではありましたが、先日グァテマラで殺害された女性の母親のあまりに冷静な受け答えや、教団の「関係ない」のようなコメントを見るとき、私たちは「肉の心」を失いたくないものだと感じます。
教会が組織だったものになればなるほど、こうした傾向になることは否めません。ファリサイ派を私たちは安易に非難しますが、果たしてそう言えるのか、実は私たちはファリサイ派と同じ、あるいはもっと酷いことをしているのではないか、と見つめ、あるいは認めるだけの、心のクッションをもっていたいと常々思っています。