良い知らせ
2018年11月11日
イザヤは預言書としても大きなもので、イエスもここから多くの引用をしました。61章の最初の部分も、福音書に引用されており、たとえばルカ4章では、かなり自由に引用されているにせよ、キリストすなわちメシアが、人々に何をもたらすのかという使命を示すために役立っている箇所だと言えるものでしょう。
そのため、実はここには追究箇所が盛りだくさんです。「油注ぎ」とは何か、「貧しい人」とは、「良い知らせ」とは、「解放」「主の恵みの年」「報復」「灰」「香油」「賛美」「樫の木」「異邦」「ぶどう畑」「二倍」「契約」「諸国民」「晴れ着」「花婿と花嫁」、ざっと眺めただけでも、突っ込んでみたいものが満載です。さすがに全部持ち出すことはできないので、今回は決して「すきま」ではないのでしょうが、「貧しい人」と「良い知らせ」に絞って少し深めて考えてみたいと思います。
「貧しい人に良い知らせを伝えさせる」、これがメシアへの神の使命でした。油を注いだのはメシアとしての役割ですから、これはイザヤその人のためと言うよりも、イエスが引用した如く、イエス・キリストのためだと解するのが、たぶんクリスチャンというものでしょう。
「貧しい」のは、もちろん今でいう経済的な意味もあるでしょうが、ここでは次に「打ち砕かれた心」とあるように、精神的なものをも指していると見たいところです。それは使われているヘブル語、あるいは新約ならばギリシア語においてもそう考えられています。また、「捕らわれ人」「つながれている人」も出てきますから、そうした不自由な環境にある人のことも、この「貧しさ」の中に含まれていると見たほうがよいかと思います。心が打ち砕かれ、身動きがとれなくなった窮乏の中にある、そうした状態を指しています。
そこで思い出されるのが、マタイの「心の貧しい人々は幸い」のフレーズです。これがルカになると「心の」がなく、単に「貧しい人々は幸い」ときますから、ここの違いはよく話題に上ります。一般的には、ルカの表現のほうがより原型に近く、マタイがそこに限定する語を加えたのだろうと言われています。今私たちは「貧しい」という言葉で、金銭的経済的なものをどうしてもイメージするようになっていますが、このような捉え方は、必ずしも人類に普遍的なものではありませんでした。経済社会の仕組みから貧しさを測るということが、そのまま古代世界に当てはまるわけではないと思われます。このイザヤ書を読むときにも、そのような背景から捉えようと努め、やはり打ちひしがれた者への呼びかけがあるように見上げてみてはどうでしょうか。確かに金銭的に困窮していても打ちひしがれますが、そうでなくても、そういうことがあるはずです。
さらに、より鮮明に捉えたいのは、「良い知らせ」でしょう。「良い知らせを伝えること」は、ヘブル語でもギリシア語でも一語です。イザヤはとくにこの語を愛して用い、預言の中に幾度も出てきます。ギリシア語ならば「エヴァンゲリヲン」のモチーフとなった語で、普通は「福音を伝えること」と訳します。そのような長いフレーズで訳さなければ、内容を伝えることが難しいのです。名詞形であれば「福音」でもよいでしょう(因みにこれを「ふくおん」と読んでしまう人がいますが、もちろん「ふくいん」です)。ある邦訳聖書では、「福音する」という訳まで提言しています。凡そ日本語にない造語ですが、それが原語の感覚を最もよく伝える一語なのだ、というのです。
英語だと「グッド・ニュース」のように表現し、これを案内印刷物のタイトルにすることもありそうです。まさに聖書は、良いニュースを伝える本であり、ここから救いや喜びが与えられるということには違いないでしょう。一面、罪を指摘する厳しさはありますが、その向こうには、本当に良いニュースが待っているわけです。
私たちはメシアではなくただの人間ですが、ある意味でメシア、つまりキリストが内にある者として、一人ひとりにも、この使命が委ねられていると考えてよいかと思われます。字面だけ見れば「貧しい人」であり「良い知らせ」であるだけで、何のことか分かりづらいかもしれませんが、世間で言う「うまい話」である以上に素晴らしいニュースを、今日も、ここで、告げ知らせることができるのだ、と聖書は呼びかけています。