平成最後

2018年11月5日

新語・流行語大賞の予想が早くも始まっています。そもそも2018年の十大(重大?)ニュースなるものも、12月初頭には決められるというように、12月の事件は想定しないような向きがありますが、まあ流行り言葉は残り一カ月で急速に、というわけにもゆかないかもしれませんから、今年と世相を振り返る一つの機会となるかもしれません。
 
そうした場に、実はけっこう使われているのに、「新語・流行語」として意識されていない言葉があると私は思います。それは「平成最後」です。
 
2019年に天皇の代替わりが行われることが決まりました。もちろん、そのときまでご健在であれば、という前提ですが、戦後教育をアメリカナイズ、あるいはキリスト教関係者から受けてきた現在の天皇にあっては、思うところもいろいろあったことでしょう。それが、この近年類例のない事態を現実化したのですから、ずいぶん思い切ったことを主張し、また慣行を変えた点では、なかなかの人であると驚きます。
 
このことが、今年の夏以降、「平成最後の」という前置きを付ける言い方が、実にたくさんなされていたことが、あまりに自然で意識されないほどであった、と私は申し上げているわけです。
 
平成最後の夏休み、平成最後の運動会、平成最後の名月、平成最後のハロウィン、平成最後の日本シリーズ、なんでもかんでも付けることができる言葉であり、これは貴重だ、歴史に残る、といったイメージもたせる言葉でありました(因みに例として挙げたこれらの語はネット上には確実にたくさん存在しており、「平成最後」の検索だけで数百万の数字が現れます)。まだしばらく使われることでしょう。これこそ、2018年に生まれた、そして今年から来年にかけての限定の、多用される流行語であるとは言えないでしょうか。
 
しかしこの元号というものについては、天皇が時を支配するというかつての考え方を強調するものであって、多くのキリスト教団体は好むものではないかと思います。公文書ではこの元号によらないといけない、というきまりがあったようですが、それも近年変わりつつあるともいいます。これを機会に元号をやめたら、という意見もあり、年数計算に支障があることは多くの人が感じているようです。
 
驚いたのは、浄土真宗の法名軸。今年母を送りましたが、そもそも禅寺で生まれ育った母が、浄土真宗の法名というのもどうかという気がする、といったことに私が目を見張ったのではありません。法名軸とは、法名と亡くなった年月日を記してある小さな掛け軸のことですが、これが西暦で記されていたのです。これはネットでも類例が見当たりませんでした。
 
天皇中心とするようにしたいのは、天皇本人ではなく、周辺であることは確実です。日本史は、天皇を利用して思いのままに人心を操ろうとした為政者の歴史であるとも言えます。この伝統は今もかわりないようです。
 
私がよく言う、8月15日を特別な日だとするのもまさにそうで、戦後しばらくの間(1947年まで)は15日が終わりだとは考えられていなかったのです。1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれると、翌年から全国戦没者追悼式が行われるようになり、それが1963年以降8月15日に開催されるようになったことから、この日が終戦記念日として定着したと思わされていったように考えられます。盂蘭盆会と重ね合わせて日本人は8月15日という天皇の声を聞いた時を基準にさせられていきました。しかし国際的にはこの日は、自国の独立の日といったことを除いては、あまり意識されておらず、9月2日のミズーリ号での休戦協定なる降伏文書調印のほうが主体であるように見えます。こうした様子を当時の新聞記事で示す資料としての『資料で読む世界の8月15日』(山川出版社、いまAmazonでは高いが元は2500円+税、メルカリでは安く見たことがある)に私は教えられました。その13頁には、「八・一五終戦記念日は【戦争の記憶】ではなく、【戦後の忘却】の上に成立している」(【 】部分は原文では傍点)と評してあります。なお、本書の新聞記事資料としては、全国紙のほかに、「キリスト新聞」も用いられているところが、公平でもあり、うれしくもあるように思えました。
 
皇室や天皇の受けた教育は、確実に変わっています。基本的人権を奪われた一族と、それを取り巻き利用しようとする勢力との間の関係が、今後どうなっていくのか、私たちは見守らねばならないし、警戒しなければなりません。あるいはまた、その人権擁護のために運動をすることも必要かもしれません。「平成最後」という言葉の使われ方の異常さを誰もが意識しないほどに、当然視されているような背景に光を当て、考えるように促すのは、哲学者の重要な使命だと思い、指摘した次第です。



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