聖書は聖なる書なのか
2018年11月1日
11月1日は万聖節。カトリックの定めている典礼暦に基づくお祭り。Hallowsという言葉で呼ばれることがあるため、その前夜をハロウィンというそうです。が、ハロウィンのほうは、ケルト文化の名残と言われ、収穫や民族宗教の意味があったということですが、近年日本でもばか騒ぎのネタとして恰好のものとして有名になりました。いまなお誤解されることがありますが、キリスト教とは関係がありません。古くから、聖人と殉教者を祝うために設けられたようで、喩えてよいのかどうか分かりませんが、日本の「盂蘭盆会」の感覚を重ねると少し近いかもしれません。プロテスタントではこれを祝うことはしないと思われますが、子ども英語教室では必ずあの名文句が繰り返されます。
さて、キリスト教についてはハロウィンばかりでなく、世間で様々に評されることがあります。良い評価もあるでしょうが、悪いこともいろいろ言われます。それらに対してつい弁護したくなりますが、どうも、一面そのどれもが当たっているのではないか、と素直に受け取ることにしてみました。
明らかに違うと言えるのは、キリスト教は人肉を喰らい血を啜っている、という噂くらいのもので、悪口の指摘はだいたい当たっているのではないか、と。
そもそも「聖書」というネーミングがどうかとも思われます。英語で「聖」の意味が付けられることがあったせいかもしれませんが、英語にはその「Holy」の付かない言い方や「Testament」の呼称もあるのに対して、日本語で「聖」を取り除いた「書」や「遺言」では全く通じませんから、日本人には「聖」が刷り込まれているような気がしてなりません。けれども、およそこれは「聖」とはにても似つかぬ内容だと言うべきだ、という声もあるのです。
もちろん、神は聖でしょう。きよらかで、人の世界から隔絶している、つまり超越しているのが神という存在です。超越していながら人に関わるというあたりで、神学の説明が施されるのですが、そのようにはっきり分けられている、ということが「聖」の本来の意味だと言われています。きよいというよりも、別だという意識が根底にあるのだ、と。
その点、安易に人が神になるという前提のある宗教文化とはまた異なります。が、ともかく聖書は、人の罪のカタログのようなもので、人の身から見れば、実に悪辣で汚い人間の姿をとことん暴いているとしか言いようのない壮絶な書だと言えるでしょう。この毒々しい本を見ていると、とても人間は救いようがないという圧のある声が、これでもかというほどに突きつけられてきます。どの頁にも罪、罪、罪です。
これを、自分とは無関係だと眺めていられるほど、私も鈍感であるわけでなく、聖書を手にしたら、己れの罪を示され、打ちのめされてしまいます。それから、それと対照的に、神のきよさを知ることになる、という順序であるはずなのですが、いつの間にか、己れのほうがきよくなり、神のしていることはけしからん、などと批評するようになるのも、困った人の性。
一見、神を称えているかのように見えて、実は、神を信じていると口に出す自分が偉くなっていく。すると、自分と違うタイプの人間を見下すようになり、ますます自分は立派な存在のように自分で思い込んでいく。そんなスタンスに立って世界を眺めているという自分の姿に気づけば、まだ修正が利くのですが、なかなかそれができません。自分を客観視するべし、とよく言われますが、難しいものです。いろいろな目に遭って、改めて自分の曲がったところに気づかせて戴く日々を経験するばかりです。
聖書は、その中に自分がいるように読むために記されたと考えます。イエスの語りは、その譬えや教えの中に、自分がいるのだと気づかせるためのものであったと考えます。このような仕方で聖書に向き合うならば、いくらかは自分を客観視することもできるのではないか、というふうにも思うようになりました。