「聞く」ことと「読む」こと

2018年10月31日

神学校のオープン授業に参加して、お騒がせばかりしてきました。定休の月曜日の授業にしか出られませんが、受けたかったものが月曜日に今年は変わっていたので喜んで参加しました。最終週だけは、火曜日も休みとなったので、その日だけですが授業に加わりました。
 
礼拝についての学びが今回のオープンの最後の授業となりましたが、そのテキストの中に、「聞く」ことの大切さが説かれているところがありました。聖書朗読という、礼拝の中の中枢とも言える場面で、聖書を開かずに「聞く」ことを勧めていました。そもそも聖書は歴史的に「聞く」ものであって、「読む」ものではなかった、というのがひとつであるようなのですが、紙面のスペースからか、詳しく論じたり説明したりしているわけではありませんでした。
 
しかし私は、よく分かると思いました。私自身実践しているからであり、また常々そう思っているからです。また、それはどこかの本で見たような気がします。使うテキストが分からなかったので、家にある礼拝学関係の本を少し持参していましたが、それとは別の本が使われていました。その、持ってきていた越川先生の本にも少しそういうことが書いてありました。ふだんの礼拝でも、一緒に読みましょうとテキストについて誘われても、私はただ聞いていることがしばしばです。聖書を目で追うのではない、その日の聖書の言葉との出会いを求めてのことです。
 
蓋し、聖書の言葉は「聞く」ようであってよい、というのが私の考えです。「読む」行為は、読む私のほうが主体となります。私の目や意識は、自分で見るものを選ぶことすらできます。読み飛ばそうとすれば平気で読み飛ばせます。都合の悪いところは見ないようにもできるでしょう。目を閉じれば見えなくなるのです。しかし「聞く」のは、耳を塞いでもかなり聞こえます。いやでも耳に入るのであり、また相手が語るそのスピードや口調に私が支配され、従うだけの立場となっています。読むスピードは自分で変えられますが、聞くスピードは変えられません(速度調整の録音機器の再生であれば自分かコントロールできる、とも言えるが)。「聞く」行為は受身であり、自分の意志で左右できません。神の言葉が語られるとき、神の側に主導権があることがはっきりしています。
 
こういう具合で、私は「聞く」ようでありたいと願うのです。そうでなくとも、私は勝手な自己主張も強く、余計なことを言いひとを不愉快にさせたり傷つけたりします。できるならば聞き上手になりたいとも思うのですが、エレミヤではありませんが、口に出さないではおれないということがあるのも事実です。
 
もちろん、他人にこれを強要するつもりはありません。私がただ、「聞く」ことによって神の言葉と出会うのだという点を強調したいだけです。「聞く」ものは、私の外から来ます。私ではない、私の外から神の言葉が、否応なく私に届けられ、私を取り巻き、私の内へ入ろうとします。私のほうから「読む」ことで神に出会おうとするのではなく、神が語りかける言葉を「聞く」こで私のコントロールなしに神の側から神が私を支配するのです。



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