クリスチャンのくせに

2018年10月28日

クリスチャンのくせに、という枕詞があります。続くフレーズは、否定的な言葉です。怒りっぽいとか、冷たいとか。ということは、クリスチャンという語の中には、良い意味が包含されているという共通理解があるものと思われます。ですから、「クリスチャンのくせに」と言われることを、多くのクリスチャンは怯えているかもしれません。
 
私は、さほど動揺はしません。いえ、どうせ人間は罪深いのですから落ち込む必要はないのですよ、とか、その駄目な自分をイエスは救ってくださったのだ、とか信仰深い反応をする、という意味ではありません。
 
洗礼を受ける前から、牧師にオオカミだ悪魔だと罵られ、別の牧師は自己保全目的で役員を味方につけて私に悪者のレッテルを貼り、入会の前にまた別の牧師から傲慢の極致だと罵られるといった経験があります。そのくらいのことには、怯みませんでした。鼻で息をする者から出る言葉でしかないものは、恐れる必要がないのですから、たとえ「クリスチャンのくせに」と言われたとしても、何も怯える理由はないのです。
 
SNSではカチンとくることを私が語っていても、黙殺すれば済むでしょうが、実際目の前に私を迎えた人は、素行の悪い私にそういう対処をしなければならなかったのでしょう。クリスチャンのくせに、私はそんなふうである――いえ、クリスチャンだからこそ、この程度で済んでいるのだと思っています。でなかったら、もっと酷いことをずけずけと言い、しかもひとりよがりで、理不尽なことをぶつけて相手を打ちのめしていたことだろうと想像します。
 
さらにもっと恐ろしいことをしでかしていたことも十分予感できます。クリスチャンでなかったら、ひとの気持ちなんてこれっぽっちも分からないし尊重しようなどとは考えなかったに違いありません。ひとを騙すし、カネを巻き上げるためになんでも利用していたことでしょう。
 
クリスチャンであったから、まだましなのです。クリスチャンであれば聖人になれるわけでもないし、しかしまた、クリスチャンであってもろくでもないダメなのだ、という卑屈な態度でいるわけでもありません。クリスチャンだったから、まだましなのです。そして、聖書の言葉がその都度自分を支え、次の道を導いてきたことを証言することができます。神は真実なお方ですから、私を放り投げはなさいません。
 
どうせ自分はだめな奴だよ、と開き直っているつもりもありません。それは「そんなことはないよ」と言ってほしい甘えでしかないと思うからです。ひとの慰めを必要としないし、また逆にひとから「ほんとうに酷い奴だね」と言われても素直に同意するしかないわけで、それは事実その通りなのだというふうに見ているだけです。
 
しかし神は私を大切にしてくださる、それは本当です。そのような信仰が悪いわけではないにしても、注意したいのは、そのことでいつの間にか、自分が自分を大切な存在だと勘違いしてしまうことです。大切にする主体は、私ではなく、神なのです。異性が自分を愛してくれたとしても、それは自分が自分を愛しているなどと言うと変なことになるでしょう。相手が自分を、という関係と、自分が相手を、という関係とが相互に成り立っているだけです。時に、自己愛を、神の愛と勘違いしがちな人間の錯視があるということに、気づいていたいと考えています。
 
クリスチャンのくせに。そこには、いつしか自分が思い描いている「クリスチャン像」が知らず識らずのうちに前提されていることがあります。そのイメージは、自分の中から出てくる場合が多く、そして自己愛に基づくイメージになろうとするすり替えが忍び込むこともあります。私はただ、イエス・キリストと出会ったという事実によって生かされていて、その言葉が私をましにさせているという信頼の中で、私が受けた思いを言葉で表し、手足を動かすというきょうを歩むことが許されているに過ぎません。
 
そもそもクリスチャンという言葉が蔑称であった、という問題は、この場ではとくに重視しません。プロテスタントも印象派も、多くの流派は敵からの蔑称を誇りとした、逆説のような名を以て自分たちのアイデンティティにしたわけです。元来「クリスチャンのくせに」が悪者を前提とした意味であった時には、「クリスチャンのくせに、立派なことをするじゃないか」のほうが適切な語の用法であったことでしょうが、語の意味を一方に規定してしまうのでなく、そもそも語は両義を含んでもよいのだというくらいの気構えでいきたいと思います。十字架という世にも残酷な死刑台が、永遠の命の源だなんて、逆説以外の何ものでもないのですから。



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