自己言及
2018年10月26日
FEBC(キリスト教放送局)は、私にとり信仰を育ててくれた貴重な放送局です。かつてはラジオで聞いていましたが、その時間帯に殆ど聞けなくなり、しばらく遠ざかっていました。しかし近年、インターネットでオンデマンドで聞けることが分かり、また拝聴するようになりました。
吉崎恵子さんがご健在で、お便り(?)に対して相変わらずほんとうによいカウンセラーとして対応しているのを聞くと頼もしく思います。もちろん、小林節が聞けたり、加藤常昭先生の訥々と語る福音には多くのことを教えられました。カトリックの方々のすばらしい語りに感動したり、いまは雨宮先生の旧約聖書の読解は、あまりにも勉強になるために語りをノートしているほどです。
そんな言い方をしていいのかな、と思うようなことが、全くない訳ではないでしょう。が、通りすぎる音声にいちいち反応していくような真似は私もしないし、したくもありません。ただ、度々繰り返されるコマーシャル・メッセージは、違和感を覚える表現があると、毎回気になって仕方がありません。その点、FEBCのコマーシャル・メッセージの文面を考える方、またアナウンサーに、考えて戴きたいことがあります。
ふたつだけ例を挙げます。
まず「今すぐ簡単・安全にご献金いただけます」とサイトに記されており、また放送では「簡単に」だけがアナウンスされています。クレジットカードによる献金の案内で、言いたいことはもちろん分かります。分かっています。けれども、私は語感として「簡単に献金できます」という表現が、ひっかかって仕方がないのです。献金って、そんなに簡単にできるものでしょうか。やもめのレプタではありませんが、給料を犠牲にして教会に通う者もいれば、そもそもの生活費の物いり、子どもたちへの支援、人助け、そして多くの方が教会にそれなりの献金をしているリスナーの生活の中で、さらに放送局のために献金を加えるというのは、そんなに簡単なことではないのです。もちろん、クレジットカードだと手間がかからない、と言いたいことは分かっています。けれども、「簡単に献金ができます」と耳にするその響きが、申し訳ないのですが、抵抗感を懐かせます。「クレジットカードだと、手間がかからない」程度なら、何も感じないのですが、「簡単に献金できます」には、そうじゃないぞという気持ちがまず働いてしまうのです。そう感じるのが私だけなら、私が悪いのでしょうけれども。
それから、これはサイトに記されてはおらず、放送だけなのですが、こういうふうに最近しばしばコマーシャルしています。インターネット放送の推奨とと、それから一カ月分の放送を収録したラジオ毎月便を月600円で販売、という販促のところなのですが、「FEBCの放送は、雑音が多いのが玉に瑕」と言っています。これも私の語感に原因があるのかもしれませんが、「玉に瑕」を自分について使うことは、少なくとも私にはありません。「私は、早口なのが玉に瑕です」などとは決して言いません。その一点を除けば、ほかは完全である、というのが「玉に瑕」の意味です。つまり、自分は殆ど完全なのだ、と相手に告げているのですが、私はとてもそんな一点しか欠点のない者だなどとは言えません。FEBCは雑音さえなければ、つまりインターネットやMP3で聞くならば完璧なのですよ、と宣伝するのは、リスナーの私が他の人に宣伝するのならばよいのですが、FEBC自身がそのように言っていることに、不遜な感覚さえ懐いてしまうのです。また、それに続いて、「クリアーに聞く、これは案外大切なこと。あなたが耳を傾けておられるのは、ほんとうはあのお方の御声なのですから」と、洒落た言葉で結ぶのですが、このアナウンサー自身もコーナーをもっており、自分の感想や意見を述べています。つまり、自分の語りは「あの方の御声」なのだ、と告げているようです。もちろん、イエス・キリストなり神なりのことを言っているに違いないことは誰が聞いても分かることですから、自分の声は神の声だ、と言っていることになります。これも、リスナーである私たちが誰かに宣伝するときに言うのならば問題はないと思うのですが、本人がこれを言うということについては、私はものすごく抵抗があります。
同じ言葉でも、誰がどういう立場で語るのか、ということにより、全く違ったものをひとに伝えます。日本語には、だから尊敬語と謙譲語とがあるわけです。毎日毎日繰り返し告げられるこのような表現に対して、放送局側が無感覚でいられるということが、私には考えられないのです。
礼拝などの説教を、会衆は、神の言葉として聞く、それは信仰のひとつの現れです。そして、語る者も、自分は神の言葉を語るのだという自覚はあってもよいと思います。神の言葉が自分の口から語られるようにと祈り、それが出来事となっていくことを望むことを、私は悪いとは何も思いません。けれども、いま自分の語っているのは神の言葉だぞ、と講壇で、あるいは二人きりの場で豪語する人に対しては、私は警戒を怠りません。その時点で私は危険を覚え、見限るだろうと思います。こうしたことに基づくいやらしいハラスメントさえ近年問題に挙がっています。自己言及というのは、難しいものです。
だから、放送局全体がそのような言い方を繰り返してほしくないし、また、福音を語るという人、ひいてはすべてのクリスチャンが祭司でもあるのですから、すべて福音を伝える者が、たとえ自分をある意味で誇ることは信仰であるにしても、弱さをこそ誇るのであって、たとえ語感の上でも、高みに立っているような言い方をして戴きたくはないと私は願うのです。私だけの奇妙な「こだわり」だけで済む問題であるならば、それはそれで構わないとは思うのですが。