大切な人を思う想像力
201810月22日
一旦堰を切った水は勢い留まることなく流れ出します。ここのところ、毒舌になってきました。調子に乗らないように、またそのためによけいにひとを傷つけないようにとは気をつけますが、言わねばならないことは、留め置くことができません。個人を非難するようなことはしていないつもりですので、ここも事象に即して考え、可能ならば自己自身に対して問いかける時間を設けてくだされば幸いです。今回はとくにきつい内容ですので、不快を覚える方はどうぞ読むのをお止めくださいますように。テーマは次の行の冒頭に掲げています。
人工妊娠中絶(以後響きが悪いのですが「中絶」と称します)で苦しむ女性のための活動があります。そのような配慮をキリスト教関係の団体がしていることをうれしく思いました。人々の意識を確認するために、こんな質問がなされました。
「【中絶は】の主語に続いて、どんな言葉が続くと考えられますか」
するとすかさず男性の力強い声で、「ひと殺しだ」と返答がありました。質問者は「罪」という言葉を想定していたと思われ、その返答に一瞬戸惑いながらも話を続けました。
たしかに「罪」というのも、ひとが決めるものではないという考えもあるとすれば、その返答もひとつの正直な感覚であるのかもしれません。しかし、男性だからこそ、そんな言い方ができるのかもしれない、という気もしました。もちろん女性にもいろいろな意見があるかとは思いますが、「産む」ということについて、女性がとてつもないリスクを抱えているということに、私を含めて男性はあまり気づいていない、少なくとも実感がもてないのではないかと思ったのです。
性交渉について、男性本人はリスクをもちません。もちろん妊娠となれば責任を負うであろうことは分かります。しかし、妊娠するのは女性です。自分の体の中に生命が発生する、という状況を抱えます。これは男性にはありません。
中絶は、その生命を産まれさせないようにすることです。法律的には刑法と民法とでまた事情により差異がありますが、一定のきまりがります。しかし医学的にはどうかというと、目的により異なる見解がある場合があります。まして宗教的な理解となると、きまりというわけではなくなります。これを、受精の時に生命が始まったという解釈をすると、中絶は「ひと殺し」であるという結果になります。そのように受け取る人々もいれば、そうは受け取らないほうがよいとする人々もいます。キリスト教内部でもそれは一意的に決定されてはいません。だからこそ、アメリカ大統領選挙のときにこの問題で大きく支持層が変わるという報道があるわけです。
なにもここでその定めをはっきりさせましょう、などというつもりはありません。ただ、思考実験をしてみましょう。いえ、これは実験ではなく、実体験やその渦中にあるという方も現実にあるわけですから、非常に不愉快な思いをさせてしまいましたら、謝るしかありません。敢えてストーリーを掲げます。
女性が「望まない妊娠」をしたとき、どうするか、という問題です。「あなた」をさし当たり男性だとして話をさせてください。女性であれば当人としてお考えください。
あなたの愛する妻か恋人かが、レイプ被害を受けました。そして妊娠したことが分かりました。このとき、ひと殺しはいけないから産みなさい、とあなたが言えるのかどうか、自ら問うてみてください。
子どもを育てるのに苦しい経済情況がありました。あなたはしかし妻か恋人と性的な交わりを断つということに意味を見出しません。避妊具は着けていました。しかし何の間違いか、妊娠という事態が起こりました。とても出産費用が賄えないし、またその後の生活も絶望的です。それでも産むように言えるでしょうか。
妊娠を喜んでいた夫婦でありましたが、検査で、胎児に重大な病気があることが分かりました。そのまま出産すれば、母胎に影響が出ます。分かりやすく言えば、女性が死ぬか胎児が死ぬか、どちらかしか選べないという医学的な判断です。妻に、産むべきだと強いることができるでしょうか。
経済的な問題は、もしかすると産むべきだと考えるかもしれません。しかし、あなた自身が健康であればよいのですが、あなた自身何かしら働いて収入を得ることのできない状態であるなどの事情を想定してみてください。ほかにも、妊娠した女性がそのために自殺をしようとしたときに、それでもなお、産むべきだとの言葉を語れるかどうか、私たちは自らに問い直す必要があるのではないでしょうか。
もちろん、女性自身の心理はこの状況説明では十分考慮されていません。苛酷なシチュエーションでも、産むわ、と答えた女性がいるかもしれません。それに対してどうするかは、それはまたお二人の関係の問題であって、ここで問うていることではないとも言えます。しかしそもそもふだんの生活から女性は、性交渉は結局自分がリスクを背負うということを考えていますから、慎重になりますし、自分の体は自分で守る、という意識が強いものと思われます。それでもなお、性暴力の危険を避けるなどの防衛を常に考える一種の恐怖が伴います。近年では、キリスト教会の中でもそのようなことが発覚していますから、宗教ハラスメントによりそのような目に遭うということさえも、空想の話ではなくなっています。
さらに、戦争という非常時を考えてみましょう。キリスト教会の左派ではありましょうが、しばしば指摘するように、戦争において性的暴行を受ける人がいるというのは事実と言えましょう。修道女たちが兵士に襲われ集団レイプを受けたという歴史もまた、事実あったことです。そのとき「殺すなかれ」からそのとき妊娠した子を修道女は出産したというのです。「すばらしい、それこそひと殺しをせずによかった」と、あなたは手放しで喜べるでしょうか。また、それがあなたの妻や恋人であっても、同じことを言うでしょうか。
「殺すなかれ」という十戒。これには様々な説明があります。文法的には、殺すようなことをあなたがするはずがない、という意味だ、というのがひとつの定説ですが、ともあれ、この戒めの適用相手というのがそれ以上に問題となります。いまでもこれを守るならば、死刑制度はなくなります。いえ、そもそもこれは人間だけの対象でしかありません。私たちは毎日毎日数えきれないくらいの動物や植物を殺して食べて、また生活しています。殺さなければ私たちは誰ひとり生きていけません。動物には権利がないのか、という一方で、動物虐待はいけない、などとも言います。どこに境界線があるのは、判然としません。
新約聖書も実は怪しく、福音が兵士や戦争の喩えの中で語られる場合もありますが、それよりもいまは旧約聖書に目を注ぎましょう。これは、イスラエルによる他民族の殺戮の歴史ではなかったでしょうか。神自ら「殺せ」と命じています。何万、何千と敵を殺したことが神のみこころのように描かれています。
万を殺したダビデを、私たちはイエスの祖先として、また王の象徴として褒めています。ダビデにはウリヤという、実に悪辣な殺し方をした被害者の話がありますが、あまつさえそのウリヤから奪った妻を通して、あのソロモンが産まれているというのです。私たちは、望まない妊娠をした女性を「ひと殺し」と呼びつつ、「産むべきだ」と持論を突きつけ、その口で、「ダビデの信仰はすばらしい」と褒めるようなことをしてよいのでしょうか。そうした自分に、気づいているでしょうか。
それともまさか、これは正しい戦争だから、自分が相手を殺すことは正義であって殺人ではない、と主張するのでしょうか。もちろんそんな主張もかつてありましたし、いまもあるでしょう。互いに自らが正義であるからと言って戦うのが戦争であるということに、ようやく人類は気づき始めたようには思っていますが、性根はやはり変わっていないのが実のところです。聖書でも「聖絶」という訳語を作ったものがありましたが、いま私たちがそのように言うことができのかどうか、考えなければならないのではないでしょうか。
聖書の記事には目を瞑り、戦争は悪だからそこで殺すのは悪だ、という論理も成り立つかもしれません。それでは死刑はどうでしょうか。死刑は人を殺すことです。そして死刑は悪であるが遂行する、とはなかなかひとは口にしません。むしろ死刑は正義だと普通は言われます。死刑執行人が殺すのであって、自分は関係ない、とでも言うのでしょうか。
先ほど十戒を取り上げました。そこで私の無知を指摘したくなった方がいらっしゃるかもしれません。そうです。十戒の「殺す」のときには、動物や戦争や死刑については用いない語を使っています。あの掟は、普遍的な一切の殺害を禁じているのではありません。だったら私たちはなおさら、他人の出来事に安易にそれを適用し、決して自分の身に起こったことには適用しない、というような恣意的な扱いをすることに慎重になることが望ましいのではないのでしょうか。ファリサイ派はまさに、律法をそのように用いていたのです。自分はつねに律法を守る者として立ち現れるようにし、侮蔑する民に対しては律法を守れないではないかと指摘する、そしてそんなあり方に異を唱えたイエスを、律法ならぬ仕方で殺したのでした。現代でも、誰もがいつでもファリサイ派になることができます。もしかすると、なっているかもしれません。
中絶についても、被害者として妊娠させられたときにする中絶は人殺しではない、などというように、恣意的に正義にしたりしなかったりすることが、果たしてできるのか、問い直そうではありませんか。たとえそのように言ったとしても、それでその女性の心の傷が癒されるはずがないということにも、気づこうではありませんか。一生抱えるその重い気持ちに気づかない男性が、えてしていとも簡単に重荷をのしかけている実情を憂います。セクシャル・ハラスメントは、気をつけていても、男性はきっとしているのです。もちろん私もです。
いったい、中絶手術とはどうするのか具体的に男性はご存じでしょうか。もちろんここで説明するほど野暮ではありませんから、どうぞ関心をもって調べてみてください。それは母体にもかなりの危険性を及ぼす処置です。それを賄う医療関係者も不快でしょうが、当人の抱える身体的リスクと一生それを抱える精神とに比べれば、問題にならないくらいのものかもしれません。一時よりは医学が発達しているとは言いながらも、だから胃カメラを呑んだ程度だろうなどというわけにはいかないわけです。だから日本では、水子地蔵といった形でその不安を除こうとする知恵があり、あるいはそれに乗じた商売がはびこりもします。しかしそれでいくらでも精神的なケアができるのであれば、まだ救われているのかもしれません。
男性にできることは、愛する女性を支えることでしかないような気がします。どこまでも味方をすることを貫き、理論上は負えない痛みを共に担う覚悟をもつくらいしかできません。せめて、女性の心を攻撃するようなことからは、身を引くのがまだよいのではないでしょうか。非難する男性のいる場では、女性は声を挙げることができません。この問題は、基本的に女性だけの中で話をし、また手を繋ぎ合うことが望ましいと私は考えます。そして男性はその問題についてはむしろ「加害」の立場にいるものという自覚をもって、女性を尊重する方向で対していくしかないのではないか、と思うのです。
そうでなくても、私たちは、日に日に心の中で、ひとを殺しています。誰かを憎み、誰かの悪口を言い、誰かを軽蔑したり、希望を失わせるようなことを、たとえ口に出さなくてもいつでも出てくるところにまで喉元に有しています。山上の説教でイエスが突きつけた新しい律法を、自分はもうクリアしたんだ、と無関係を装うような真似をせず、傷ついた人びとと共に生きる決意を、つねに新たにしていきたいと切に願うのです。