レビラト婚
2018年10月21日
ナオミは夫と二人の息子を亡くし、息子たちの嫁と三人になりました。そこで、二人の嫁に、実家に帰れと命じます。そのほうが平和な暮らしができるのだから、と。ナオミはイスラエル民族でしたが、嫁たちはモアブ人でした。モアブ人はイスラエル人からは低く見られていましたし、まともな仲間と認められない虞がありましたから、ナオミの思いやりも理解できます。ユダヤに嫁たちが来ても、よいことはないと考えたのです。しかし嫁たちは、ナオミと共に行動すると答えます。
ついていきたいと言う嫁たちに対してナオミは、不思議なことを言います。
★ルツ記
1:11 ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。
1:12 わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、
1:13 その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。……
自分が子どもをこれから産むのを待つようなことをするのは馬鹿げている、というのです。そもそも年老いたナオミが結婚できるとは思わないし、たとえいま再婚したとしても、そこから産んだ子どもが読めたちの夫になれるわけがないだろう、と。
これは、イスラエルにあったレビラト婚(レビレート婚)に基づく言葉だと考えられます。これは、夫が死んだ場合、その弟と再婚をするように、と決められていたものです。levirというラテン語が義兄弟を意味するところから名づけられたようです。恐らくその親族のまとまりを崩さないためでもあり、また相続問題を穏やかに解決するためのものでもあっただろうと考えられます。聖書では、申命記が明確にそれを出しています。
★申命記
25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
25:6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
ほかに有名なところでは、創世記の中にこれに基づくと考えられる記事があります。
★創世記
38:8 ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」
しかしそのようにしてもうけた子どもが、兄名義になっていくと思ったオナンは、子種を地に流したことで死を招くという場面でした。ここからオナニーという語が使われたというのですが、情景は私たちが思い描くものとはだいぶ違うようです。
このレビラト婚を根拠に、イエスを追い詰めようとしたサドカイ派のエピソードが福音書にもありました。
★ルカ
20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
復活信仰は、ユダヤ教の中でも比較的新しい教義に属し、旧約聖書続編にはいくつかはっきりと描かれているものの、プロテスタントが有する旧約聖書では、象徴的に述べられている場合ばかりです。そうした状況ですから、民衆的なファリサイ派はこの復活を受け容れていましたが、祭司や権力側にあった儀式的サドカイ派は、復活はないという見解をもっていました。この点で両派は相容れなかったのですが、イエスは復活を説いていましたから、ファリサイ派ではなく、サドカイ派がこの点にかみついてきたのです。いったいこの女は復活のときに誰の妻であるのか、奇妙ではないか、と。
結婚が家と家、部族と部族というような血縁組織の中で考えられていた時代は、古今東西これに類する習慣が多々ありました。逆に妻が先に亡くなった場合にその姉妹と結婚をしなければならない、というケースもあったようです。また、身近に見ているものですから、こうした規定に基づくことがなくても、結果的にこの形態に収まるという場合もありました。
近年、急速に、この家と家という考えが薄れてきています。結婚式場には相変わらず「○○家」のような札もありますが、その挙式さえモダンなスタイルだとかなりパーティ形式になってきました。宗教色が薄れて、友だちに囲まれて、という人前結婚も好まれています。
結婚は個人の合意に基づくというのは、それはそれでよいことです。家のために、会社のために、政略結婚が当たり前だった時代に比べると、なんと自由でひとの気持ちが活かされる世の中になったことでしょう。そんな中で「家」などと持ち出すと、時代錯誤だと言われそうですが、婚姻は二人だけの関係に終わらず、とくにその親との関係、また親類などとのつながりも芽生えるものである点は、決して消え去ったわけではありません。
より深刻なのが、葬儀です。墓はなかなか個人だけではもてないし、誰も面倒をみない墓というものが事実上考えられない以上、普通には家の墓という考え方が通常です。その中で、家の墓に入らない、というケースが増えています。散骨などの現象がそれですが、あの親のいる墓に自分は入りたくない、という嫁など、家族の不和が原因である場合もあります。また、遺産相続問題でもめたり、死後離婚(姻族関係終了)を求めたりするケースもあり、家という制度があっという間に崩れてきている様子が見てとれます。
クリスチャンとして、仏教的な葬儀を望まないと自分においては考えても、親がクリスチャンでない場合は、自分の墓守を頼みたい気持ちは切なるものでありましょうし、できるならばそれは責任を負って然るべきではないかと私は考えますが、それもその家や家族の状況や考え方に基づくものでしょうから、なんとも他人の口から言えるものではありません。
実は寺院のほうでも、明確に信仰に基づく檀家でなければその家の墓を預かれない、という方針を打ち出しているところがあります。そのためまた、宗派を問わない霊園や納骨堂が業者により大々的に運営されるようにもなっていますが、これも企業ですので、その会社が消滅した場合にどうなるかなど、課題は残されています。
レビラト婚の解説にはあまりなっていませんが、そこから家における関係、とくに墓という、家がなお背景にある営み、しかも誰もがそこに関わらなければならない営みについて、考える機会を提供させて戴きました。