万人救済論者であろうがなんであろうが
201810月18日
先日、こんなふうな意味のツイートを見ました。
――某をリツイート(引用)する人は、フォローを外します。万人救済論者の声は聞きたくない。
某さんが万人救済論者ということなのでしょうか。そしてその人のツイートを引用しただけで、そいつも万人救済論者なのだという断定です。えらく乱暴な論理ですが、そんなことを言い始めたら、私のタイムラインに流れてくる人は、他宗教やら異端やら、また政治的にどうだろうねと私が感じる人など、様々な人がいるから、友だちがいなくなってしまいそうです。いろいろな声を聞いていくからこそ面白いと考える私は、「あれあれ」と思ってしまいました。
万人救済論というのは、ざっくり言うと、神はすべての人を救う、と考えるタイプの人です。キリスト教では「審き(さばき)」があるという声がむしろ標準であると思われますが、聖書にはすべての人が救われるというように読めるところも見られます。あれだけ長きにわたり記され、書かれた場所も書いた人も状況も様々なな文書が集められていますから、そして救いというありかたを述べるには、どちらの側面も語るに違いないのですから、聖書を根拠にするなどとは言っても、いろいろな受け取り方があっても仕方がないところでしょう。
聖書そのものに、事象そのものについて語るというのは、ここでは難しいものとします。そこで、いっそプラグマティックに考えてみたらどうだろう、という気がしました。
まず、その万人救済論者である人は、そのように生きればよいと思うのです。周りの誰かが、ひどいことをしてきたと言います。普通のクリスチャンだったら、「そんなことをするあんたは地獄行きだ」と言いたいところです。言わないまでも、けっこう思っているのではないでしょう。脳裏に浮かんでは、いやいやこんなことではいかん、と首を振ったりして。しかし万人救済論者であれば、これを言うと自己矛盾に陥ります。自分に対して悪いことをしてくる人に対して、おまえは審かれる、と言うことができないので、言うなれば相手を赦すということになるでしょう。なんて素敵なのでしょう。誰にでも優しくなれるというのです。福音書であの困難なイエスの命令が実行できるのです。
いやいや、審きが行われて羊と山羊に分けられるのだ、選ばれて救われた者は永遠の命を受け、イエスを否定する者は審かれて第二の死に至るのだ、という主張を強くする人もいるでしょう。その人がしてはいけないことは、自分で自分は救われていると自惚れることです。それと類似していますが、自分が自分を含め、人間について審くことをしてはいけません。審きを自分がするという教義を信じてはいないはずであり、審きを行うのは主であるという点では揺るぎがないでしょう。他人を審くことを止めることになります。そして、自分が救われる側にいられるように、善いことをしようと努めるのではないでしょうか。このときここでも、他人に対して優しくなれるはずです。ファリサイ派になりたくない、というモットーで、誰にでも優しくなれるのではないでしょうか。
自分の信じ掲げる教義を互いにぶつけ合い、争っている場合ではありません。もしそのようなことが起こっても、万人救済論者は相手も救われているのだと自説を噛みしめればよいし、審きを確信する者も、争ってなどいたら自分が審かれると気づくと、その諍いを止めることが可能だと考えたい。
キリスト教は、自分の思い描く教義を掲げてどれが正しいか、を話し合うためのものではありません。まして、それで争うためのものではありません。違うでしょうか。キリストを主と仰ぐ者たちが、互いに相手を敬愛し、またまだ信じていない人に対しても愛する思いを向け、また手を差し伸べる、そうして誰もが親切で愛のある振る舞いを生きるようになれたらよいのではないでしょうか。それができるように、生き生きと輝いて生きるようになれたら、そのように神に生かされたら、もしかすると、あの不可能と思われたイエスの厳しい(?)愛の命令も、知らず識らずのうちに遂行している、ということが期待できるのではないでしょうか。キリストを信頼する、というのは、たとえばそのようなことを言うのではないかと強く思います。
いつの間にか、自分だけが正しいのだ、という思い込みに、自信家は陥ります。どうせ自分はだめだ、と落ち込んでばかりの人は、臆病になり、せっかくのタラントを土の中に埋めてしまいます。輝いて生きることを、神は望んでいるのだ、と言ってしまうと、僭越に過ぎるかもしれませんが、私も生かされるし、私もまた誰かを生かす道が拓かれるのではないか、そのように切に考えているのです。