安息日

201810月16日

安息日と書いて何と読むのでしょう。邦訳聖書にはふりがなが振ってあり、これは文化的にもたいへんよいことであったと私は思うのですが、ともかく現行聖書でも、この呼び名がいろいろあって面白いもの。「あんそくび」「あんそくにち」「あんそくじつ」、どれもあるのです。以下、皆さまの馴染んだ発音でどうぞお読みください。
 
安息日とはいつでしょう。ユダヤの一日が、日没から始まるという点でいまの社会の日付とは6時間ほどずれることになります。これでキリスト礼拝という意味の「クリスマス」も日暮れから始まるわけで、「クリスマス・イブ」は決して「前の日」の意味ではなく、まさにキリストの生まれた当の夜を指していることが分かります。
 
その安息日は、創世記で神が創造の際に休んだという記事を根拠にしていますし、出エジプト記などの十戒では安息日を守ることが厳しく言い渡されます。そのためにかつて安息日を敵に狙われて全滅した軍の出来事から、仕掛けられた戦いには応えてよいという解釈をするなど、イスラエル国の苦労もありました。それがイエスの時代、安息日を守ることのできるエリートたちと、守れない民衆との間で生じていた問題に、イエスが斬り込んだという事情がありました。
 
それはいまでいう金曜日の日没に始まり、土曜日の日没に終わることになっていました。福音書の中にある安息日はこのサイクルをいっています。しかし、キリストが死んで蘇ったその後は、キリストの弟子たちは、週の初めの日に集まるようになったことが早くも新約聖書の中で書かれています。それはいまの土曜日の日没から日曜日の日没までの間です。キリスト教社会は、つまるところ日曜日を安息日に切り換えたことになります。キリストの復活の朝を含む日を記念して集まったということです。
 
映画「炎のランナー」は、この日曜日の種目を拒絶して狂信者と罵られた、エリック・リデルの信仰を描いたところをクライマックスとします。イザヤ書40章を開いて語るエリックの姿が心に残ります。
 
さて、いつものことながら、お気に障りましたらすみません。問いかけたいのです。
「牧師の安息日はいつですか」
 
日曜日、朝から晩まで働くのが牧師であるように見えます。いや、それは労働ではない、との説明もあるでしょう。しかし、牧師給が存在し、日曜日の説教をはじめ様々なケアなどを含めて、これを対応させないのは、詭弁と言われても仕方がないでしょう。牧師は、日曜日に仕事をする職務である、これを否定するのは不可能であるはずです。
 
責めているのではありません。まず信徒に対して、このように牧師という職務は、信仰の矛盾を本性的に抱えた存在であることを知っておくべきだ、と考えます。これを思いやり、ケアしなければならないのが信徒の姿であるように思うのです。
 
そして信徒。平日たっぷりと仕事をして日曜日という休みに、教会に来る。そういう人が多数派であると思われますが、そこで何を期待されるかというと、奉仕です。日曜日しか休めない人もいて、その日に家の片づけに掃除、買い物をしなければならい中で、教会生活に多くの時間を用いなければならない実情があります。そして疲弊して、平日の勤務に戻るというケースが多々あるわけです。
 
信徒は本来、日曜くらいゆったり過ごしたい、教会に来てほっとしたい、礼拝で安心を得たい、と思っていたことでしょう。それを、日曜は神に献げる日です、という建前をいいことに、教会のために奔走するように仕向けてしまうことが、常習化しているように、私には思えてならないのです。
 
そのうえ、ボーナス的にもらううれしい祝日(これを「祭日」と呼ぶのは誤り。少なくとも天皇祭祀の呼び方である点を知っておきましょう)に、休日ならイベントができるのでこれ幸いと、教会で集会を開くというのがよくありますが、こうなると、平日の激務に喘ぐ労働者にとっては、拷問に等しくなります。集会を休むのは不信仰だ、のように見られたり、休みですよね、と任務を与えられたりするとなると、これはもうハラスメントを越えてしまいます。
 
ワーカホーリックな牧師や役員が、教会のために奉仕して当然だとばかりに、教会員に強いる――それは強いる側には「強いている」という意識がないのが特徴です――ことが当たり前のようになっている、という図式は、残念ですが珍しいことではありません。とくに高齢化や少子化を含め、規模縮小に転じている多くの教会では、奉仕者の必要数はさほど減りませんから、当然この傾向が強くなります。
 
こうなるとまた別の不幸もあります。子どもがいる場合、子どもは親と一緒に遊びに出かける、という機会が殆どなくなります。日曜日も祝日も教会。平日は親は仕事。これでは、幾多のカルト宗教と全く違わない光景です。少なくとも子どもにとってはそうなります。
 
もちろん、別の側面もあるでしょう。祝日に孤独を感じる青年や学生などがいて、彼らを誘って日曜日にはふだん話せないようなことを話したり、遊んだり、という場をつくるための企画、というのがあるとすれば、それはそれで意義のあることだと思います。楽しく集い、催しも有意義に開けたらいいと思います。けれどもそのためにまた牧師の自由な時間が消えていくのだとすれば、やはりそこは別に考えないといけない場面ではないでしょうか。牧師、どうかするとその配偶者も共に、となるのですが、どうぞお休みください、と申し上げたいのです。仕えるということと、休み無く働くということとは、等しいとは思えないのです。どうぞごゆっくりした時を過ごし、神と交わり、聖書に没頭し、生きた神の言葉を語る備えをしてくださるように、と言いたいのです。説教の原稿を締切に追われる漫画家のように仕上げてなんとか形を取り繕う、というようなふうであってほしくない、ということです。
 
単立教会の牧師は、ご自分で別の職業に就いているのでないとしたら、比較的時間に余裕がある場合があります。もちろん、平日に何もしていない牧師などいないわけで、信徒にできないことを率先して行い、奔走している実情を知っていますけれども、それでも、何もない時というのをいくらかつくることが可能です。それが大きな組織の中の教会であると、何かと会議や出張を含め、用事がさらに増えるわけで、休む暇がないような場合があります。自分が休みがないと、信徒も休みがなくても普通であるかのように錯覚する、というのは心理的にありうることで、日曜日が唯一の休日であるような信徒の気持ちに気づかないということもあるのではないでしょうか。
 
このように、歪んだ安息日を営む牧師が、教会の人の安息を妨げていくような図式があることを、まずは認めなければならないと思っています。その前提で、牧師が率先して休みをとることが必要だと考えます。面会や訪問などで、なかなか思うように休めない場合があることは承知しています。だからこそ、休めるときには休むべしという提言です。休みを知らない牧師は、休みの大切さを想像すらできなくなる虞があるからです。
 
『牧会者の神学』(E.H.ピーターソン)という本がありました。牧師夫婦がゆったりとした時間をもつことの大切さが描かれていました。しかしこの本のほかに、そのような点を描いた本に、私はたぶん出会ったことがありません。忙しく働いている牧師こそが立派なのだ、と言わんばかりのものは枚挙に暇がないのですが。
 
安息日とは何か。律法的に決めるのではなく、愛において、考え直してみませんか。
 
 
※なお、日曜日に勤務のある人についてもいろいろ思うところがありますが、またの機会にお話ししたいと考えています。

人の子は安息日の主なのである。(マタイ12:8)



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