名
201810月14日
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。(詩編8:1,10)
古来、ひとは「名」というものに特別な権威を感じていました。「名は体を表す」といまでも言うように、名はその実体を含んでいると考えられ、たとえば言霊のような理解にも、名の重要性がこめられていたものと思われます。
聖書でも、ひとに名があれば、その名は人格を表しているように見なされていました。その名が残ることは名誉(ここにも「名」が入る)なことであり、名が断ち切られること、消されることは、たんに死ぬよりもよくないことでした。創世記から、登場するひとの名にこめられた意味が解説されている場合がよくあるし、聖書事典を開いても、人名には必ず、その名がどんな意味をもつ言葉であるのかがまず示されます。それほどに、名は重視されるべきものでした。
旧約聖書もそうですが、とくに新約聖書では、ひとの名が、現在の視点から見れば勝手に使われているように見える場合が目立ちます。「パウロの名による書簡」と言って、実際にパウロが書いたとは考えにくい文書が、恰もパウロ本人が書いたようになっているのは最もはっきりした現象です。これを「偽書」とまで言ってしまう研究者もいます。聖書に含まれなかった文書もたくさんあるのですが、その中にも「偽書」と称されるものが多々あり、恰も有名な誰それがそれを書いたかよのように装っているものの、幾多の証拠からそれはありえないと結論づけられた文書のことです。
しかしまた、見方を変えれば、こういう考え方もできます。すばらしい内容の文書が書かれたとしたときに、それを実際に書いた人が自分が書いたのだよ、と自慢するのでなく、あの偉いパウロさんにこの文書を献げよう、という気持ちで、著者をパウロにしてしまったということです。恐らくこれが実情に近いのではないかと思われます。著作権のような考え方がいまのように個人主義で成立していない場合、ありうることではないでしょうか。
ところで、この名というのが、神から与えられるのは、最高の名誉だとも言えるわけで、メシア、すなわちキリストという称号ですが、これが異邦人に与えられる例がたとえばイザヤ書にあります。バビロンに捕囚されたイスラエルの民を解放したペルシア王キュロスが、神が名を与えたというのです。そのとき「油を注がれた人」(イザヤ45:1)とイザヤはキュロスのことを呼んでいますが、これはまさに「メシア」とつながる語で、それほどに解放者を歓迎している様子が見てとれるのは驚きです。
そして、なんと言っても最も重要な「名」が、神の名です。それは邦訳の上では「御名」とよく書かれています。「ぎょめい」と読むのは天皇の名・署名のことですから、聖書では「みな」と読みます。原典では「名」ですから、「御」のつく言葉はそういうつもりで捉えることも大切です。
しかし神の名は考えていくと厄介です。出エジプト記3:14にはこのように書かれています。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
日本語として尻切れトンボですが、ここの訳にしても、有名ではありますが、議論がたくさん生じています。かつて「あった」のではなく、これから「あるだろう」としてでもなく、もちろんいまだけ「ある」のとも違い、とにかく存在するのだという力強い宣言として受け取るのが信仰的には健全なのですが、様々な文化的背景を含みつつ、言語上の理解も重ねていくと、実のところよく分からないとしか言えなくなるような迷路に陥ってしまいます。
有限な人間には、無限の神を包含することができませんから、象は長いものだ・固いものだ・細いものだなどと言い張った目の見えない人たちのように、私たち人間は、自分にとっての神のイメージを、全体に引き延ばしてあてはまることをやりがちです。そこで断片的にでも、神のある一面ずつを、表現することにしました。神は愛・賛美・命・道のようないくぶん抽象的な言葉もありますし、羊飼い・羊の門といった、具体的ではあっても譬えのような語もダビデやイエスがよく言いました。
しかし、旧約聖書では、「ヤーウェ」や「エル」などに修飾する語をつけて様々に神を表現しています。「エル・シャダイ」(創世記49:24など)は全能なる神という意味だと言われていますし、ワーシップの中にも出てきますね。日本語だけ挙げると「主は備えてくださる」「とこしえの神」「万軍の主」など枚挙に暇がありません。
概して邦訳の「主」は「ヤーウェ」系統を訳し、「神」は「エル」などに基づいています。後者は、古代広い地域にわたって神を表すために使われた語に由来していると考えられています。それに対して「ヤーウェ」(ヤハウェなどともいう)というのは、神の名を表す神聖な四文字(YHWHにほぼ相当するが表記は様々ある)を現代の文献学の成果として得た呼び名ですが、ユダヤ人は、十戒の、神の名をみだりに唱えてはならないという項目を根拠に、この神の名を口に挙げることをよしとしなかったために、読み方が分からなくなっていたのです。
ヘブル語は、基本的に子音を並べて表記しますから、読むために母音を「―」や「・」で示します。なんのことはない、日本語も漢字をどう読むかは文脈で判断するので似たようなところがあるわけです。それで神聖四文字にも母音が一応ついているのですが、それをそのまま真に受けて16世紀頃読んだのが「エホバ」というような発音です。文語訳聖書までは、「主」のところを「エホバ」と訳しており、古い讃美歌・聖歌では「エホバ」と歌う箇所もありました。また、ここに留まっている「エホバの証人」も有名です。しかし、それは「主人」という意味の語の「アドナイ」の母音を四文字に振ったのだ、といまは考えられており、それは四文字自体を発音しないための知恵であったというわけですから、神の真の呼び名は、見かけの母音からは隠されているということでありました。それを研究者たちの努力が、「ヤーウェ」へと辿り着いたのが現代です。
近年、宗教多元主義という考え方が現れています。ジョン・ヒックがその先駆をなし、いまなお検討されるほどの価値を有する思想となっていますが、その著書の中のひとつに『神は多くの名前をもつ』という本があります。これは上に挙げたこととは異なり、キリスト教の神という形でなくても世界には神と呼ばれる存在が多々あり、それぞれの宗教が捉えている神が別の神ではないとして考えていく道を探るものです。これが人間の心の側に引き寄せられると、「鰯の頭も信心から」のようにもなりかねませんが、多元主義の場合は、もちろんその程度のものではありません。ここにのめりこむのは、信仰生活上お勧めしませんが、他の宗教を信じる人を尊敬する気持ちは、あって然るべきではないかと思わされます。
「名」について語ってきました。もちろん、聖書の文化ばかりではありません。世界中で、古来、名というものは大切にされていました。日本の昔話でも「大工と鬼六」で、名前を知られた鬼が退散していくことを思い出します。新しくは『ゲド戦記』がこのテーマを中心に掲げていましたね。黙示録では、命の書に名が書かれているかどうかは、究極的に重要なことだと見られています。もちろん、神の名を誤るというのは論外です。
病院で患者の名を間違えれば命に関わります。役所で名を間違えれば全財産や基本的人権を消し去る可能性すらあります。合格者の名を間違える学校はもう教育機能がありません。ひとの名を軽く扱うということは、他人を粗末に扱うことです。それは愛の正反対でありますが、失敗は誰にでもあるにせよ、名を間違えるという失敗を改めようとしないことは、さらに深い悪であると言わざるをえないでしょう。神は私の名を呼んで救うのです。私たちは神の名を呼ぶのです。教会が平気でひとの名を間違えて笑っているという空気を一掃しないと、いくら口先で愛とか神とか言っていてもすべてが空しく、「信」のかけらもないということになってしまうのではないか、と懸念する次第です。