「新潮45」
2018年9月26日
「新潮45」の記事は、大きな反響を受けました。先週は新潮社自体が、これでは会社のためにもよくないと思ったのか、この記事を否定し、社長も「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と非常事態宣言を発し、ついに会社は、実質廃刊とも言えるような休刊を宣言しました。
「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を私は読んでいません。ですから、内容的なことについては、報道されている、いわば「噂話」の中でしか判断できません(書店では立ち読みできないようにビニルカバーが掛けられていました。当然でしょうが)。その上で、押さえておきたい観点について少し触れたいと思います。
まず、ひとつ。言論の自由はある、ということ。かのように考えた人がいる、そして恐らくそれの支持者もある程度確かにいる、という背景で、思想を述べること自体は妨げるわけにはゆかないだろう、ということです。これが新潮社という大手でなかったら、これほど騒ぎ立てることはなかっただろうと思われます。しかしともあれ、「そのような思想を述べてはいけない」とは言いにくいのではないのでしょうか。言ったことについての責任を問われたり、反対意見を受けたりすることは、提言者は覚悟しなければならないでしょうが、「言ってはいけない」としてしまうことは、できないことを明確にしておく必要があります。もちろん、好ましいことではないだろうし、人を傷つけることを言うことから弱い立場の人々を守らなければならないという社会的良識はあるのですが、言論を封じるところにまで踏み出してはならないであろうということです。
次に、それが言論目的なのか商業目的なのかを検討する必要がある、ということ。生半可な良識を記事にしたところで、雑誌が売れることは望めません。そこでわざとセンセーショナルな書き方をして表に出せば、商売として成功するでしょうし、話題に上ることで注目を浴びるでしょう。この効果を狙って、バッシングを覚悟で記事にした、という動機がこの場合大きい可能性が高いと思われます。売れるならば誰かを傷つけてもよい、ということがけしからん、とする見方もあるでしょうが、そもそもゴシップ記事はそうやって儲けているものですし、様々な週刊誌やテレビの報道「系」番組はそれで成り立っている、と言っても過言ではないでしょう。商業ベースで考えられているとなると、記事内容はいわばどうでもよい、という捉え方もありうるようになります。この角度からこの現象を分析するとどうなるか、も必要な見方であると思われます。
それから、ここでLGBTQが中心に挙げられているばかりでなく、障害者や高齢者などを否定する思想、あるいは金計算基準で物事を決める基本姿勢を、社会が省みるべきできないか、ということ。「新潮45」や当議員だけでなく、私たちが選挙で議員を選ぶときや、地域の方針を決めるときに、経済が最大の原理ではないかを振り返る機会とすることが望ましいと私は考えます。どんな理想を掲げようと、経済的にできないとか、それで経済が成り立つのかとかいうことで一蹴されてしまう議論の顛末があまりにも当たり前になっているのではないかということです。そして金の有無が人間の価値さえも決めている現実に、奇妙さを覚えないという感覚の麻痺を問題にするとよいのではないか、と考えます。私にしてみれば、これこそがクィアなのですが。
最後に、これはキリスト教界の問題ですが、まさにキリスト教こそが、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を歴史の中で主張してきたという自省をして然るべきだという点です。新約聖書でイエスに徹底的に非難されたファリサイ派などの姿勢は、まさに障害者を排除するものであったかもしれません。しかし、旧約聖書で同性愛を否定していることからして、そしてユダヤ教ではまだどこかマイナーであった「罪」という問題が顕在化したキリスト教においては、特にパウロ書簡に基づくであろうと思われるのですが、同性愛を明確に罪と呼び、言うなれば裁くこととなった点を見逃すことはできません。歴代のキリスト教会はこれを守り、明確にそれを断罪し、罰してきたのです。いえ、現代でこそ、いわゆるリベラルな側では同性愛を支持し始めましたが、完全に否定するキリスト教のグループも多数あります。そのせいか、今回の「新潮45」の問題にも、キリスト教界からの反応は、あまり熱心ではありません。個人的に、明確に積極的にLGBTQを支持する人々からは強い反対意見が出ているようですが、教義上抵触することを背景にしてか、全体的に反応は鈍いように思われます。
いえ、それは当然と言えば当然なのです。実際キリスト教の歴史は、LGBTQを否定してきたのです。また、近年それが社会的に認められてきたとしても、戦後民主主義が教科書を黒塗りしたように、かつての自分たちの反対主張をころりと変えて涼しい顔をすることができない、という弱みのようなものも背景にあるのかもしれません。さも正義の味方であるかのように、いまLGBTQを擁護するからには、これまでのキリスト教界が虐げていたという歴史と背景の中に立つ自身、ある意味で悔い改めなければならないはずです。これを経てこその、擁護となっていくのでなければなりません。
それから、聖書は誤りなき神の言葉である、とする信仰告白にもこれは関わる事柄となります。教会の信仰としてこれを明言する、たとえば原理主義なり福音派なりであれば、パウロの言葉を拒否する声明が出せないジレンマがあります。それでいて、いま世界は休息に、LGBTQを支援する方向に進んでいるのですから、聖書の記述に固執するという立場は、社会とずれていくことになりかねません。もちろん、弱いひとを護るのだ、というふうに、キリスト教や聖書の、別の側面から解釈して、その世界の流れに同調することは当然できますし、現に多くのキリスト教会はそのようにしていると思われますが、しかし聖書信仰を保つ時に、齟齬が生じることを避けるのは困難な状況にあります。
これらは概観による理解ですので、詳細に見れば、心ある活動家がいらっしゃいますでしょうし、キリスト教界でも、誠意ある検討が多々なされていることだろうとは思いますが、ひとつの視点と検討課題として、皆さまに提供しようと考えました。至らない点を含め、またいろいろ教えて戴きたいと願います。