「宗教問題」
2018年9月24日
聞いたことのある雑誌でしたが、どういう論壇なのか、よく知らなかったし、仏教や新興宗教の金や組織にまつわる見出しが多いので、それほど興味を抱きませんでした。しかし、ふと見た最新の特集で、腰を上げることとなりました。特集は、次のとおりです。
「日本のキリスト教」という暗闇
わぁ、これはまいった。隠れキリシタンとこれからのキリスト教との比較対談がトップですが、その次にはキリスト新聞やMinistry、そしてSNSなどでアグレッシブな考えを提示している(?)松谷信司さんが、キリスト教会を「限界集落」になぞらえて危機感を訴えています。その次が、牧師ロックの関野和寛牧師。昭和時代の延長で考えていくのではダメだという、ある意味で当たり前のことを、体当たりでぶつけています。
生温い私たちは、なかなか目覚めません。目を覚ましていなさいというキリストの言葉に、無反応なのです。今後のキリスト教世界が閉塞の運命にあることは目に見えて明らかなのに、せいぜいのところ「どうしましょう」で会議が踊り、「また次の時に考えましょう」とか「神は最善に導きます、信じていきましょう」とか言ってにこやかに解散するような有様なのですから。
特集の中には、性犯罪についての話題もありました。キリスト教会だけではありませんが、世界的にも大きな問題となっていますし、日本においてもそれはあります。牧師が男だという前提で言うのは気が引けますが、「金と女」が元凶になっている問題は、あまりにも基本的で、情けないくらいに多いものです。
こうした問題を論じるひとに対して、指導者が「不信仰」のレッテルを貼るというのも、ありがちなこと。それがパワハラであるということにも、当人だけが気づかない。特集の何「暗闇」という語を用いたのは、センセーショナルな勢いもあるかもしれませんが、見えていないこと、目覚めていないことを思うと、なんと適切な表現なのだろうか、と私は思いました。
ずいぶん以前(23年前)に、イチロー選手が車のコマーシャルで、「変わらなきゃ」というコピーを語っていました。イチロー自身が変わらなきゃというほどのインパクトがあったのですが、私たちはどれほど、変わらなきゃならないことでしょう。
変えてはならないものと、変えなければならないもの。この見分けが難しいことは承知の上です。だから、変えてはならない聖書のもつ命に徹底すると共に、私たちの頑なな思い込みや感情を、変えていくことも、きっと、必要なのだと思えてなりません。