彼岸
2018年9月22日
彼岸という言葉は、もちろん仏教用語です。太陽が真東から上り真西に沈む春分と秋分に意味をもたせた、古人の知恵でもあるでしょう。(ただし理科の定義からすると、日の出と日の入りは太陽の上辺が地平線を出る時なので、どちらも若干北寄りとなり、同じ理由で昼と夜の長さについてもこの日は少し昼が長いことになります。)
一年がちょうど365日ではない関係から、その年によりカレンダーの日付が異なりますが、秋分の日は9月23日頃に定まります。多くの地域で不思議とこの時季にぴたっと花開くのが、ヒガンバナ。緑の田に強烈な朱が、葉もなしに居並ぶ様は気味が悪いという見方もあり、死人にまつわる名前を有しているなど、全国各地に様々な呼称を持つ花でもあります。
うんざりした夏が終わりを告げるとも言われ、空の色や雲の様子が、明らかに秋を示します。仏教だと盂蘭盆を重んじることが多いのですが、この彼岸もまた、縁を覚え故人を偲ぶ時としても用いられます。浄土という考えから極楽浄土を西方に見る捉え方に由来するのだそうですが、日本だけに見られる習慣ともされます。
但しこの彼岸の考えと、いわゆる三途の川の考えとは一応切り離しておくほうがよいようです。様々なエピソードや物語が次々と書き添えられていくのが仏典あるいは仏教文化というもので、一定の聖典の結集はあるものの、カノンたるものは、いろいろに選びつつ、諸宗派が形成されていきます。キリスト教が、ユダヤ教に影響されてか、聖書を定めようとする動きに促されていくのとは少し違うように見えます。
さて、彼岸とはもちろん、向こう岸という意味。本来は涅槃をそれと見るのでしょうが、四苦八苦の世を離れ永遠の安らぎが与えられるところと見なされます。向こう岸と言えば、新約聖書では、イスラエル北のガリラヤ湖がイエスの生涯の多くの時期の舞台となりますので、湖の向こう岸に渡るという話も掲載されています。このガリラヤ湖は、いくつかの別名ももっていますが、大きさは、福岡に住む人であれば、ちょうど博多枠を見渡すような感じだと理解するとよいでしょう。向こう岸がかすかに見えたかもしれません。あまりにも巨大というわけではないようです。
さて、神の国というのが、遠くに見える町にあるかのように決めてしまう必要はないでしょう。神の国、神の支配するところは、いまここにある、という一面もあるからです。だからすでに得た、などという必要もないにしても、これから向こうに越えたところに神の国がある、とするのもぴんとこないような気がします。
ただ、私たちは何かに怯み、立ち竦むことがあります。一方踏み出れば何かが始まるのに、それができない。恐怖かもしれないし、不安かもしれません。こう言えばどうなるか、これをすればどうなるか、ためらうことがあります。でも、たとえ何かが起こっても、しないよりはしたほうがいい、そういうことも多々あるでしょう。後悔しても取り戻せないことがあります。それに、また次の機会があるという保証もありません。
そういうためらいを打ち破るためにも、私たちに主は呼びかけます。「向こう岸に渡ろう」と。主がともにいませば、嵐も治まることを信じて、自分で閉じこめている自分から、解放されることが、可能になるでしょう。それを恐らく、「奇蹟」と呼んでもよいことであるように、私は捉えます。すると、自分では思いもよらないようなことが起こる。「奇蹟」が現実になるということです。
なお、仏教については、ど素人なので、不適切な言い方をしてきたかもしれません。ご教示をお願いしたいところです。