牧師だって人間ですから

2018年9月14日

大学に入って学内雑誌に寄稿したのが、「見る者の立場」という題の短文でした。何の知識もない者の拙稿でしかなかったのですが、その後信仰を与えられてからも、この観点は生かされているように思います。
 
「見る」を「言う」に替えていまはよく考えます。「見る」だけでは自分だけの問題に留まりますが、それを「言う」ことによって、他者に影響を及ぼしますから、原理的なところから、実践的な方面に関わってくるかもしれません。
 
プロ野球の四番打者。走者が二人、ヒットで2点入ればサヨナラ勝ちという場面。ここであえなく見逃し三振。「四番だって、人間ですから、打てない時もありますよ」と、当の選手がインタビューで言ったとしたら、ファンはどう思うでしょう。
 
外科医が、90%以上成功しますから、と実施した手術でミスをして患者が死亡。「医者だって、人間ですから、失敗する時はあります。それに、100%だなんて言いませんでしたよ」と、遺族に弁明したら、さて、遺族はどう思うでしょうか。
 
これらの台詞は、嘘ではありません。命題としては、真理です。もし、ファンが「四番だって、人間ですから」と言ったとしたら、その言葉は平穏に終わったでしょう。もし、遺族の側が「医者だって、人間ですから」と言ったとしたら、トラブルにはならなかったことでしょう。しかし、上の例では、それを言った者が誰か、そこが問題でした。
 
「夜道を一人歩きする女のほうが悪いんだ」「挑発する服を着ていた女が悪いんだ」と、もし被害女性が言ったとしたら、自戒の言葉で終わったことでしょうが、これはありそうにありません。たいていは、加害者側が言う言葉です。だから、当然非難されるでしょう。と思いきや、最近は、傍観者の声が、このような言い方で加害者を責め立てるケースがしばしば見られます。SNSで気軽に意見が言える中で、こんなことができるようになったわけですが、こうなると、傍観者ではなくて、暴漢者とでも呼ぶほうが相応しいとも言えます。
 
数学的な命題や、科学的な性質については、誰がどこでどう言おうと、真理か否かが決定されるし、どこで発言されても、その価値は変わらないと言えるでしょう。けれども、倫理的な意味が含まれるときには、そうではありません。しかし多くの場合、議論はその内容に限定され、誰が発言したのかは考慮に入れられません。
 
「牧師だって人間ですよ」という命題は、嘘ではありません。そんなことは明瞭です。けれども、これを牧師の立場から発言していたら、どうでしょう。私は、言うべきことではない、と考えます。プロ野球選手の場合も、外科医の場合も、彼らはプロでした。プロが、失敗を安易に「人間ですから」と弁明するのは、悪い意味での甘えにほかならず、プロ失格だと言われても仕方がないのではないでしょうか。同様に、牧師という肩書きがあれば、それはプロです。信徒が「牧師だって人間ですよ」と言うのなら、分かるのです。しかし、牧師当人がこれを言ってしまうことは、断じて相応しくないと考えます。
 
牧師自身が、牧師も人間だから、というフレーズを自らが言うと、その続きは「許してくれ」ということでありましょう。「愛してくれ」かもしれません。牧師の立場から自分が至らないのは原理的に真実なのだからあなたたちは許すのが当然だ、と迫るわけです。これは今風に言えばパワハラの部類に属します。社長が社員に「給料の計算間違えてね、ちょっと低くなってしまったんだが、まあ人間だから社長も間違えるよ、すまん」で済むでしょうか。牧師自らが「牧師は人間です」と言ってよいのは、「だから信徒は牧師を神のように見なしてはいけないし、牧師が信徒に対して神のように振る舞ってはいけない」という場合に限られるのではないでしょうか。
 
望ましいのは、牧師は自分に厳しく、如何なる失敗も責任を背負う覚悟をする。それに対して、信徒のほうが、牧師だって人間なのだから仕方がありません、許しますよ、と対応する。こうではないでしょうか。そしてこのときに、愛というものがはたらいている場が成立すると思うのです。牧師の立場から牧師を許すのが当然だろう、と迫るように聞こえることを言うべきではありません。それはパワハラの本質をまるで理解していないことになります。そして、パワハラというのは、いじめと同じで、しているほうが自覚していないからこそ、これだけ社会的に問題となっているということに、もう少し皆が気づくべきでしょう。
 
クリスチャンとしては、自分では何のよいこともした覚えがないにも拘わらず、主の日に主の口から、したではないか、と褒められるのが理想でしょうか。しかしそれを端から期待することもできませんので、せめて私たちは自分で自分を許すような真似をするのでなく、主の日に主の口から、「おまえも人間だから仕方なかったな」と言われるくらいに慰められたら、大いに喜びたい、それくらいの期待はできるのではないかしら。
 
「総理大臣だって人間ですから」などともし当の総理大臣が発言したら、大変な騒ぎになるでしょう。プロの矜持を失った、無責任な人だというレッテルを貼られるに違いありません。しかしそのようなことを、私たちは安易にやってしまっています。自覚するのが難しいかもしれませんが、えてして、自分に甘い人は、他人には厳しいという事態をよく見聞します。自分に対しては弁明から入り、他人に対しては法や道徳から入るからです。
 
さて、こうして「言う者の立場」について考えてきたわけですが、当然それは私自身にも適用されます。「神学校にも行っていない一信徒の分際で、何を生意気なことを言っておるのだ」と言われても仕方がないのは事実です。このことを、一介の信徒に過ぎない私が述べたという、そのこと自体はどうなのでしょうか。このように偉そうなことをこんな私が語ったこと、それはしてよかったのでしょうか。そもそもできることだったのでしょうか。そのあたりは、当人の私には判断ができません。今までのことをこの私が語ったことの是非については、さしあたり皆さまのご批判に委ねるしかありません。



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